賞味期限切れの長女とのインド旅日記をしつこく連載しています。ほんと申し訳ありません。万が一、興味を持ってくださった方は、当ブログのカテゴリー「INDIA 2011」でDAY1からどうぞ暇つぶし下さい。宜しくお願いいたしまっす。 ツジヤ アヤ
1月10日 ブッダ・ガヤー
霧と寒さを、私達は各々のベッドの中でお日様が大気を温めはじめる時間までやり過ごしていた。Mは日本から持ってきた唯一の漫画「ワンピース」の番外編を、もうページが扇状にバサバサと開いてしまうくらい何往復もしていた。にも関わらず、同じページの同じコマに差し掛かると必ず「ねえ、母(かあ)、ココ読んで、ココ!」と吹き出しそうになるのをこらえながら見せてよこし、そのたびに私は「ああそれ、もう何回も見たしイ・・オモロイヨネ」とか何とか言って、後はまたそれぞれ別段何を話すでもなく、時間が過ぎるのを待った。私はといえば、「ノルウェイの森」。特に読みたかったとか村上春樹さんのファンだとかいうことではなく、というより自分には殆ど読書経験というものが無かったので、町で唯一のT書店で何となく聞いた事のあるタイトルといえばこの「ノルウェイの森」しかなく、後はさて続きもの小説の3巻のみだとかハーレクイーンだとか成功本の類のラインナップで、そしたらこれ緑と赤そろってるからコレにしますでブッダ・ガヤーでこのベストセラーを初めて読むとかそういう流れ。
Mは相変わらずゲラゲラと身をよじりながら定期的に笑っていたが、時折こちらをチラ見しているのが目の端に映る。私は、「ノルウェイの森」の展開と上下巻のクリスマスカラーの違和感と、ここはインドな現実に支離滅裂になりながらも、気持ちの片隅で昨晩の湯船でのことが気恥ずかしく、だからやっぱりノルウェイの森に逃避していた。
(M)あたしの隣にはずっとチベット人の男の子が立っていて、その子の手の中にはもう何枚も何枚も菩提樹の葉っぱが舞い降りて来る。時々ザワザワって風が吹けば、あたし達の間には何かがピンと張り詰めて、あたしもその子も、菩提樹の方へ両手を伸ばす。誰かが「あ」とか「おお」とか言うでしょう?そしたらあたしはどうしてもそっちの方を向いてしまう。それでハッとして彼の方を見た時には、もう葉っぱは彼の手の中にあるって訳。
マハーボディー寺院の裏手に在るこの大きな菩提樹は、その下でブッダに覚りが訪れたといわれる有名な樹だとか。チベットから来た人達はあたしとあまり変わらない格好をしていたけど、ヨーロッパや日本やアメリカなどから来た旅行者は、決まって色褪せたブカブカでヨレヨレのズボンを履いていて、髪の毛がすごく長いかもしくはヘンテコな帽子なんかを被っていて、その樹の下でしきりにお祈りをしていた。
「覚りって何?」
母ちゃんはしばらく黙っていたけど、「そういえば、知りません。」と言った。
Mはずっとずっと、菩提樹の葉が自分の手の中に落ちてくる時を待っていた。葉は青々としてめったな事では落ちて来ず、神聖な樹ゆえ揺すったり登ったりする訳にもいかないので、ただひたすら風と幸運を待つのみ。私は少し離れた場所に腰掛けて、その様子を眺めていた。
ざわめきがすぐ静寂となり、静寂がまたざわめきとなりながら、菩提樹の葉はゆっくりとでも次々と誰かの手の中に落ちていった。手にした者は周囲から羨望混じりの微笑みを受け、この1枚で幸運を約束されたのか、それとも手にしたことそれ自体が幸運なのか。他人の幸運に落胆することなく、Mはひたすら樹を仰いでいた。太陽の陽射しが菩提樹から延びたいかにも健康的な枝ぶりに分割され、Mの頬にガラスの破片のように降り注いでいたのがとても印象的だったのを覚えている。
風が吹き、見上げる者すべてが両手を伸ばし身をかたくした。一瞬をついてMがわずかに前へ歩み出た。菩提樹の葉が、意思を持って彼女の手の平にゆっくりと舞い落ちた。
(M)あたしが振り向いたとき母ちゃんもあたしを見ていて、その時母ちゃんが何を思ったかというと、コルカタで行ったカーリー寺院のヤギの断首式の時の事だったって。あの時あたしは母ちゃんがヤギが首を切られるのを見ているのを遠くから眺めて待っていたけど、その時の事をね、思い出すって言う訳。それで、その時のあたしの目が今あなたを眺めていた時の母ちゃんの目で、だからあなたはまだほんの小さな女の子だけれど、その瞳の奥レベルではあなたも私も同等だと思うのとか何とかそういう話。そういう時は言ってる母ちゃん本人にも良くわかってないんだけれど、まああの人は思いついたことをとにかくすぐ言わないと気が済まない人だから、あたしは黙って聞いてたけど。それにしたって菩提樹の葉が手に入ってあたしは本当に嬉しい。
私とMは菩提樹から少し離れた場所に腰掛けて、まだ幸運に手を伸ばし続ける人々を観察した。生温くなったコーラを飲みながらもう一方の手で葉っぱの茎を大事そうに持っているM越しに、フランス人の一行がガイド付きで菩提樹を見上げているのを眺めた。そのうちの数人が臙脂色の袈裟をまとった少年僧の頭を撫でたり、一緒に写真を撮っているのが見えた。写真撮影の後で少年は一行に両手を差し出すのだけれど、彼らはやんわりと微笑んでしかしそっと追い返すそぶりを見せた。少年は次の一行、次の一行と歩み寄ってはその都度、撮影に応じた。「絵図らとしての少年僧」をカメラに閉じ込めたら、彼らはもうそれで充分なのかもしれなかった。
フランス人の一行が去った後、少年僧が私達の隣に座ったのでその時彼の片方の目が白濁していることに気がついた。Mが「コーラ飲むかな」と言うのでコーラを指差して見せたらニッコリと頷いた。少年は2枚のラミネートされた印刷物を取り出して私達に見せた。そこにはもっと幼い頃の少年の写真と、病気で片方の視力を失ったので治療費が欲しいのだ、というような事が書かれてあった。印刷物を取り出す仕草と、私達を覗き込む表情があまりも滑らかだったことが何だか寂しく、差し出された両手に軽い虚しさを覚えた。それから(自分もあのブルジョアフランス人達と同じではないか)と思った。気がつけば少年の後ろには彼そっくりの父親が立っていた。わたしは「彼にコーラをあげてもいいか」と訪ね、父親はわずかに微笑んだ。それから父親に私達親子の写真を撮ってとお願いし、そのお礼にRs50を手渡した。それからMが彼らの写真を撮った。後で見てみると、私達の姿は写っておらず、代わりにマハーボディー寺院の後姿だけが残されていた。
Mと同じくらい、もしかしたらそれ以上に私は菩提樹の葉が欲しかった。もし手に入れることができたなら、そうだあの友達にあげよう・・・その葉を封じ込めた小さなノートを手渡している場面まで想像できるほどだった。きっと子供の頃の自分なら、飛び跳ねながら掴もうとしたに違いない。いつの頃からか、本当に欲しいものの前ではじっと耳を澄ますようになった。もしそれが本当に必要で、手に入れることが素敵なことだとしたら、それはきっと手に入る、慌てなくても。
(M)結局母ちゃんのところには菩提樹の葉は降っては来なくて、あたし達はお腹がぺこぺこだったので外へ出て何か食べましょうということになった。さっきの小僧さんは、やっぱり遠くの方で旅人相手に両手を差し出したりしていて、さっきまで一緒にここに居てコーラ飲んだはずだけど、もうあたしの事なんかすっかり忘れてしまっているみたいだった。そしてお父さんは、あらいつの間にかまた姿を消していて、あたしはそこいらじゅうを見渡したけどどこに居るのかさっぱり分からなかった。そうこうしているうちに、うちの母ちゃんまでどこにいるのか分からなくなってしまった。菩提樹の周りを1周してみたら母ちゃんはなんださっきの場所に居て、今度はまた違う小僧さんになにやらお願いされている風だった。
僧侶になる為の勉強をしているというその少年は、仏教を学ぶための本が欲しいからお金を貸して欲しいと言う。持っていませんほら、と鞄を見せれば宿はどこかと言う。ずっと遠くですと言えば、大丈夫、歩いて行きましょうとくる。お金は貸したくありませんと言えば、正面に立ちなおし、どうぞお願いですと悪びれもせず。私はなんだか可笑しくなってきて吹き出してしまった。少年も吹き出した。
「ねえ、お願いだよ本当に。日本円でも大丈夫だから」
風が吹き、菩提樹の葉がざわめいた。見上げる私達の頭上に、幸運がひとひら舞い上がり、そして少年の手のひらに舞い降りた。それはそれは、美しい時間だった。
少年はあたりまえの仕草で、その葉を私に差し出した。
「ありがとう、とても欲しかったの」と私は言った。
INDIA DAY6へ続く・・・・・・・
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