いつもは寝坊しがちで、朝から全てに於いて出遅れた日常を送っている冴えない私達母娘ではありますが、根室2日目の朝は誰に言われずとも早朝5時半には起床。お布団もきちんと整え、髪をとかし首にスカーフを巻きつけ、窓の外に根室の今日が始まるのを見ていました。はたから見れば、窓の外の景色を見ているだけなのですが、その先に見ているのは今日会えるかもしれないルンタ達の姿でした。Mもそれは同じらしく、写真集を眺めたり、地図を眺めたり、まだ良く使い方のわからないカメラをいじってみたり落ち着かない様子でした。
7時からの朝ごはんを頂きに階下食堂に降りていくと、もうおみおつけのいい匂いがして、台所の奥の方から「おはようございます、よう眠れましたか?」とやんわりとした声がかかりました。この民宿は昨日私達を出迎えてくれたあのおじさんが一人で経営されているものだと思い込んでいた自分が、急に可笑しくなりました。
食堂には私達の他に4人ほどの現場労働者風の男性客がテーブルについていて、常連さんらしく朝のワイドショーを見ながら朝ごはんをかき込んでいました。私達のテーブルにも既に沢山の手作りのおかずが並んでいて、ご飯は卓上に置かれた保温ジャーから好きなだけ自分でよそうシステムとなっているようでした。そうこうしていると、さっきの声のお母さんが小さなお盆にあったかいお味噌汁をのせて運んできてくれました。すぐに、(きっと昨日のおじさんのお母さまなんだろうなあ)と察しました。やんわりした話し方がそっくりです。「おねえちゃん(M)のには、ネギ入れなかったからねえ」お母さんは言いました。本当はネギ入りでも平気なMですが、子供ながらにおばあちゃんの気づかいを察したのか、チラっと私の方をうかがったけれど黙って「ありがとう」と言いました。
「民宿たかの」の朝ごはんは素晴らしかったです。
何一つ特別なものは無いけれど、用意されたひとつひとつに、朝からいきなり「無言の教訓」というものをお盆にのせて差し出されたような気がしました。私達が食堂に降りてくる時間にあわせてほど良く焼かれた塩鮭も、もやしとホウレンソウのおひたしも、ごはんの柔らかさも、添えられた幼い子の好きな小さなヨーグルトのパックも、ポットの中のほうじ茶も・・・すべてが素晴らしかった。朝ごはんを頂きながら私は(自分に足りないのは、きっとこういうことなんだろうな)と感じていました。この何てことはない一つひとつのことは、だけれど、誰かのことを想いながら繰り返す、毎日のささいな動作からしか生まれないものなんだろうな・・・。台所に立っているたかのお母さんは、ちっとも慌てている様子などないのに、気がつけばテキパイキと実にいろいろな事をこなしていきます。
「卵、焼いてくるかい?」生卵を食べられないので手をつけていないのを見て、台所へ取って返し、程なくして小さなお皿に半熟に焼いた目玉焼きを持って来てくれました。目玉焼きの横には、小さくちぎったレタスとミニトマトが新たに添えられていました。そんな一つひとつにいたく感動しながら、小声でMに、「ねえ、ねえ、この目玉焼きってさあ、なんか和風よね。母ちゃんのは何ていうかこう、白身の淵っこがカリカリしててさ、裏んとこがプラスチックみたいじゃん?そう思わん?」と話しかけると、上目遣いでこっちをチラと見て、あきれたようにため息をついていました。8歳にもなれば、なんとなく母娘の関係も数年前のようにべったりとはいかなくなってくるようで、この頃ではどっちが大人なのか子供なのか分からなくなってくる瞬間も多い。思いついたと同時にすぐコトバにして吐き出す母親とは対照的に、Mのほうは近頃あまり感情を表に出さなくなってきたし、どこか達観したような顔つきでこちらを観察している風でもあります。とにかく、(せっかくこしらえてくれたものを)、という思いが強く、Mの分まで出来る限りお腹に入れたシアワセな朝ごはんでした。デザートの小さなヨーグルトのパックに、置いてきた小さな3人のことが過ぎりました。
荷物をまとめて宿を出る頃には、他の泊り客の方達はすっかり出払った後だったようで、私達の靴だけが残されていました。おひさまの日差しがいっぱい入る玄関先に、おじさんとお母さんが並んで私達を見送ってくれました。その姿を見たとき、本当は何年か前までここに お父さんの姿があったのかもしれないな、と想いました。記念にお2人の写真をお願いしたかったけれど、あんまり穏やかでやんわり立って笑って見送っていてくれるので、カメラを取り出す間抜けな時間というものでそれを壊したくないなと思いやめました。またここに来るから、そう思いました。
本日は昨日おじさんに教えてもらった地図を持って、半島を北回りに走ってみることにしました。朝の根室港は絵に描いたようにカモメが上へ下へ風に乗ってきて、そこら辺に山積みにされて放置されている網やら浮きやら、魚介類を入れる木箱やらが、すべて完璧な配置で放置されているのに感動していました。Mは「またそんなこと言っちゃって」と冷めた口調でしたが、地図を手に明らかに高揚した面持ちでした。
たかののおじさんの話では、北方原生花園をちょっと過ぎたあたりによく馬達を見かけるということ。昨日の風雨が他人事のように良く晴れた本日の根室は、11月の低い斜光に短く伸びた草原が金色に輝いていました。車で通り過ぎれば1メートル後ろはもう思い出になってしまうような懐かしい日差しの中、カーオーディオからはAsaの「Eye adaba」が流れていました。歌詞の意味も良くわからないクセに、私達がこの旅のテーマソングに選んだ歌でした。
(どうして今まで根室半島に来た事がなかったのだろう?)そう思いながら走っていました。何が違うのだろうか、と言えばここには決定的に大きな山や丘というものが無く、半島の上をいつでも風が通り抜けているのです。昨日初めて目にした巨大な風車があちこちに点在していて、空を割って立っています。「ここは風の谷のナウシカだなおい」と言えば、Mは目だけでこちらを見てはフンと鼻を鳴らすだけなのです。それが「そうだね」に聞こえるのは、私達がやっぱり母娘だからでしょう。
これをどうやって設置したかでケンカ越しの議論になるほど巨大な風車 羽がブッ飛んでくる恐怖におびえ、つい加速して通り過ぎてしまう
「あ、馬だよ!」突然Mが、遠くに馬達の姿を見つけました。
遥か遠くに馬達の姿が見える。「おーい!おーい!」とMは叫び続けるけれど聞こえるはずもなく、聞こえたからといって走り寄ってくるはずもない。
「なんでニンジンもって来なかったんだろうね」そういったMはやっぱりまだまだ子供だと思いました。それから、馬を呼び寄せるときの言い方ってなんだっけ?などと議論していたら嘘のようなタイミングでツイッター上にその情報が入る。しばらく「ボーボーボー」と呼んでいるとMが「恥ずかしいからやめて」というので諦める。「それに母ちゃん、あれはルンタ達じゃないから!」
そんな訳で私達はそのまま車を走らせ、再び納沙布岬に立ちました。昨日はほとんど演歌、な感じの納沙布岬でしたが、今日は違っていました。夏に網走の海に行った時にも感じたことですが、ここ納沙布岬にも何やらアリバイというか出来事の置いていった気配、というものを感じます。小さい頃からあっけらかんとした太平洋を見ながら育った私には、同じ海でも随分と違いを感じます。太平洋には目の前にはただただ海原しかなく、その水平線のずっとずっと向こうに何かがある、という気がするのです。しかし、納沙布岬のその先には明らかに沢山の気配が漂っているし、岩肌に停泊している野鳥の群れもカモメたちも、それが何なのか、よく知っているような気さえするのでした。
納沙布岬灯台を背に、北海道弁でいうところの「おだっている」M
お散歩途中のおじいさんが「撮ってやっから」と写してくれた、この旅唯一の2人の写真。「灯台もバッチシよう!」と言っていたけど、後で見たら映ってなかったけどまあ、いいです。
そのおじいさんは前方に「大漁」と紅い刺繍の入ったキャップを被っていて、本当にそれが欲しかったんですけど、結局いい出せなくて今かなり後悔しています。
それから私達は半島付近で飛んだりはねたり、歌ったりケンカしたりしながら過ごしました。地図の上のこの突先に居ることを何度も確認しながら、それだけのことがとても嬉しいのでした。
「Lungta」の中にある海の写真を想いました。自分がそこに立った時、(ああ、あの日差しはこういうことだったのか)と想いました。そして、(この気持ちはいつまでも忘れないようにしよう)と決めました。理由を尋ねられればきっと応えられないけれど、この気持ちがここに在る限り、これからの事全てが大丈夫なんだ 、きっとそうだ、と思いました。私の中では今ここに在る「Lungta」から、初版「Lungta」の海へと心が流れていくのが分かりました。それすらも、何故だか理由ははっきりしないのだけれど、自分が想っている以上に深く深く、心の中に焼きついているんだな、と知りました。もうそれだけでここに来て良かったと思いました。それから、声に出して「ありがとう」を言いました。Mは黙っていました。
それから私達は、何度も何度も根室半島を周りルンタ達を探し続けました。上空から見れば、私達の大きな戦車みたいなオンボロ車が、半島をクルクルやっているのです。何度走っても新しい発見があり、飽きる事がなかったけれど、とうとうルンタ達らしい馬達を見つけることはできませんでした。氏が撮影したルンタ達は半島南側を走っていれば会えるかもしれない、と旅の途中で教えて頂いたけれど見つけることはできませんでした。でも、私はすでにほとんど満たされた気持ちでした。
ユルリ島に向けて走り始めたときは、本当に冒険みたいでした。いつもはあまり自分の感情を表に出さないMもひっきりなしに喋っていました。そうしていないと、どうにかなりそうだったのです。もう正午近かったので、1時からの落石ネイチャークルーズの船に乗る事は無理なんだということは暗黙の了解となっていて、Mもそれ以上口にしませんでした。おじさんに教えて貰った、「ユルリ島に一番近い突先」が私達の目的地。もうすでにちょっと土地勘のついた根室市内を抜け、花咲駅近くを通り過ぎ、昆布盛へ。目の前に現れた2つの島は、予想以上に近くに浮かんでいました。
北海道の天然記念物に指定されているモユルリ島(左)とユルリ島
両島とも、珍鳥エトピリカやアザラシ、ラッコの繁殖地になってる
昆布盛はその名の通り、昆布漁の盛んだったところ。ユルリ島にもその昔、昆布漁で生計を立てる人たちが暮らしていたそうで、時代と共に軍用馬としての役割を終えたルンタ達は、昆布の運搬などに使われていたと聞きます。現在は無人島となっていて、ルンタ達の末裔が約25頭、ほぼ完全に野生化して生息しています。そしてその25頭はすべて雌馬なのだ、ということを、私達は昨日知らされたばかりでした。
もっと近くにユルリ島を望める場所を探して走りました。昆布盛小学校の裏手あたりをもう一度海岸線に出た所に、私達は車を停めました。さっきの場所よりも島が近くに見えましたが、またしても現れた巨大な風車の大きさと、目の前の鉄柵の前に、ユルリ島が余計に遠く感じられました。まるでガラスケースにでも収められているみたいに、すぐ手の届きそうなところに在るのに、決して触れることが出来ないのと同じでした。
私達の眼前には高い鉄柵が張り巡らされていました。「あそこには決して行く事ができないのですよ」と。
ユルリ島に向って立つM。自分で自分を見ているような瞬間。Mは風車が怖いと何度も言いながら、ユルリ島をじっと見つめていました。
「馬達は、いつも灯台の下にあつまって居るよ」
おじさんの言葉を思い出し、ユルリ島に見えるただ一つの突起物である灯台付近に目をこらしました。ユルリ島は、こちらから見える限りまっすぐな地面だけが広がる、荒涼とした印象の島です。その中に在って、灯台は唯一の「希望」のようでした。その下に、沢山の黒い影が点在し、着いたり離れたりしているのが肉眼で見えました。(やっぱりそこに居たんだね)と心の中で言いました。
「ルンタだ!ルンタ達が居るよ!!」
そう叫んでMが振り返りました。「そうだね、彼女達だね」と私が言って、私達はいつまでもその黒い点を眺めていました。島の手前を、小さな漁船が白い線を引いて渡っていくのが見えました。自分達はあれに乗る事もできなければ、決して島に上がる事もできないということが身に沁みました。せめて自分が彼女達の存在を知り、そしてこんなに会いたいと願っている、という気持ちだけでも伝えられないのか、という想いでイッパイでした。
ユルリ島に立つ灯台。その右手に、肉眼ではかすかに彼女達の姿が確認できます。
ユルリ島を後にする時には、Mも私もあまりお喋りしませんでした。1日目に南側の海岸沿いで遠くに見た、立ち入り禁止柵の向こうの馬達はルンタ達だったのかもしれないと突然Mが言い出し、またもと来た道を市内を抜け半島に入って行きました。柵の向こうには、もう馬達の姿はありませんでした。Mは少しがっかりしたけれど1日目の夕方みたいに不機嫌になったりはせず、「母ちゃん、行こう」と車に乗りました。なんとも言えない充実感と寂しさがごちゃまぜになった気持ちをお腹の奥のほうに抱えながら、私達は弟子屈への道を走りました。半島といよいよお別れという場所に来た時、
「また来ようね、根室」
とMが言いました。私はそんな遠くないまた、ここに来ると約束しました。Mは「Lungta」を膝下に抱き込んだまま、弟子屈までの道のりを夢の中で過ごしました。シアワセそうな顔をしていました。
そして再び学校がはじまり、湿ったビスケットのような日々に戻ったMです。
追伸:この旅のことは、ここに書くつもりは全くありませんでした。とても個人的な出来事だったのと、自分達にとって、とても特別な時間だったからです。でも、最近になってMが「母ちゃん、ルンタの旅のこと書いた?」と何度も聞くようになりました。それで私は、自分が思う以上に彼女がこの旅に何かを感じ、大切に想っていることを知りました。それから、母親が書くとりとめのない事を、こっそり開いて読んでいる事も知りました。だから、彼女の為の記録として残しておこうと思って書きました。
それからこの旅で、ユルリ島に生息するルンタ達が雌馬だけになっているという現実が、予想以上に自分に影響を与えているということも認めなくてはなりませんでした。この旅以来、彼女達の現実につじつまあわせができず、Lungta達の存在に自分を重ねあわせて寄り掛かっていたことも分かりました。もうすぐ厳しい冬を迎える島の彼女達のことを想えば哀しい気持ちになりますが、かといっていつまでもここに、気持ごと留まって居る訳にはいきません。そして、彼女達は何としてでも冬を乗り切り生きていこうとするのだろう、そう思います。春になったら、再びユルリ島を訪ねるつもりです。できれば今度は船に乗って。その時、彼女達が生きているなら(生きていると思いますが)それは、本当に「希望を肉眼で観る」という瞬間になるでしょう。
写真集「Lungta」との出会いは、私にとってとても大きいものでした。それは何かともし聞いてもらえるなら「扉です!」とすぐに応えることができるのです。
この扉に気がつかなければ、それはそれで充分シアワセで満ちたりた毎日を送っていたと思います。ですから、その扉の向こうに見える微かな光の方へ行きたいと思うことは、喜びと同時に新たな苦痛をも伴った旅になるということは予想がつきました。けれど、気がついてしまったからにはその先へ行きたいと、そう想いました。
この事をきっかけに、Lungta達のことに留まらず、色々なことが見えない糸で繋がっていくのを感じずには居られません。それは人間が、ただ食物を摂取し、肉体が健康に維持されており、日々を何となく不自由なく暮らしていく、というだけでは満たされない生き物だということを今更ながらつきつけてくれたように思います。
最後に、「扉」をみせてくれた山田岳男氏の作品と、氏がこの世に生まれて今この時も続けている探求の旅(芸術活動という名の)に、深くふかく感謝致します。私にとって、この年の一番大きな出来事でした。
ありがとうございます!嬉しかったよ!!!
あや
[Lungta Paradise lost #1]は、辻谷商店でも数冊お取り扱いさせて頂いてます。心臓がドキドキしている方は、是非是非、お店にお立ち寄り下さい。
長!ここまで読んで下さった方スゴイ!ちょっと申し訳ない!!
一話二話、何回も読んでからコメントしてます。
鼻の奥がツーンとして、なんだか涙がにじみました。
感想をうまくかけません。でも、とても清々しい瑞々しい気持ちです。ありがとう。
私が幼い頃乗った馬は、そこから来た昆布引きの馬です。
浜中の海にはまだ飼っている人がいて、今も浜を馬橇で走るおじちゃんが母の幼なじみなの。
モユルリとユルリ。
私も見ました。
馬が居た記憶もあります。最後に行ったのは小学3年生の時でした。
小さい頃の自分、海、じいちゃんの馬、馬をもどす呼び声、
思い出させてくれてありがとう。
やっぱりうまく書けないけど、ありがとうね。
asha聴きながら書きました。
もとこより。
投稿情報: Mootookoo | 2010/12/14 17:08
もとこ様!
旅の途中、ツイッターであなた様から馬の呼び方の情報が入ったときは驚きました。まるで、私達を見ているんじゃないか、というタイミングでした。そして私が時々、島のルンタ達のことを想って、「彼女達」とつぶやくのがあなたには誰をさすのかが分かっていることも不思議でした。そうだったんだね!幼い頃、会ったことがあるんだ。そして今も、浜中で橇をひいてるルンタがいるなんて!会いたいなあ・・・・・
ホントに色んなことが見えない糸で繋がっているね。何もかも、「LUNGTA」から始まった気がする。
もとこさんと自分の日常も、度々同じ琴線の上にあるように感じることがあります。私達も、暮らす町は違うけれどその土地土地で逞しく生きていく彼女達みたいで在りたいですね。
心のこもったメッセージありがとう。嬉しかったよ!!!いつかお会いできますように。
あや
投稿情報: あや | 2010/12/15 09:40
ただただ、うなずきながら読みました。
Ayaちゃん、イイ子育てしてるよね。
なんかカッコいいよ。
さぁ、今日も一日がんばろっっ(^O^)
投稿情報: 陽真かぁさん | 2010/12/17 08:00
真陽かあさん
メッセージありがとう!!
イイ子育て、そんな風に言ってくれてありがとう。でも、自分は母親としては本当にダメな人間だなあという気持ちが、根っこにいつもあるんだよ。それが原動力であったりもして。
ご存知のように(笑)チャランポランな自分の周りにはいつも真陽母さん達みんなが居てくれてなんとかやっておりやす。これからもドップリ甘えさせておくれ♪
で、新年会いつやりませう?
投稿情報: あや | 2010/12/17 09:34