朝、子供達より一足早く起きだして下の部屋にいると、程なくして2階のドアがギギギーっと小さく開く音がする。それからトントントンと猫の足音くらいの心細さでゆっくりと変則的に降りてくる気配がする。ドアの向こうで背伸びしている様子をイメージしながらちょっと柱の影に隠れて待っていると、幼い末娘がなんとかドアノブに小さな手をかけてドアを押し開けて入って来た。このドアさえ開ければ見つかると思っていたものが、視界にまだ入って来ない不安を眉間に押し込めて、つたつたと探し回っている。そのあたりで意地悪をやめて柱の影からパッと現れると、とたんに小さな口を顔半分くらいに大きく開けて、声も出さずに飛び込んでくる。約10時間ぶりの再会に、喜びを体中にたくわえて飛び込んでくる。毎朝のことなのに、彼女のこの喜びには今のところ当たり前、という感覚がない。今朝もまた末娘にとっては、まったく新しい再会のようだった。
先日、トシさんからKatzが頂いた、釧路出身のフォトジャーナリスト・長倉洋海さんの岩波新書「フォト・ジャーナリストの眼」という本を私が先に読んでいる。最近上の娘がなんとなく写真を撮り始めたことや、書店で長倉さんの写真集を目にして、どうしても長倉さんの本だけがグッと迫ってくる感じが忘れられなかったことや、今釧路で長倉さんの写真展が開催されているので、今度の休みの日に是非とも行ってきたいなあと思っていたことなどもあって、そんなことは知らないトシさんからのこの本のおくりものには、これも縁というものなんだなあ、と不思議な気がした。
なかなかじっくりと本に向き合える生活ではないので、残念ながら途切れ途切れなのだが、長倉さんの写真と共に数ページごとに文章が小さな題で分かれていて、ちょっとした時間を見つけて読んでいる。一つ読むごとに何かが自分のなかで微かに動くような感覚があって、文字が読めるということにいまさらながら感謝する。トシさんにも感謝する。
本の中に綴られている長倉さんの出会った人達の中には、子供を持つ女の人も出てくる。子供は居たけれど、今は居ない人、今は居るけれど明日にはどうなるか分からない人。朝、目覚めてまた会えるということがほぼ確実な世界ではない世界もまた、現存する世界。そんなことは多分ずっと前から知らない訳ではなかった。それなのに、今頃になって何か突き動かされるものを感じるのは、自分が母親になったからでも年齢や経験を重ねたからでもなく、長倉さんの写真と文章によるところが大きいと感じている。
今日は、青空。朝から蝉が鳴いている。信じられないくらい無数のタンポポの綿毛が、今しかない!というように一斉に舞ってどこかへ飛んでいく様子が、窓の外でずっと続いている。この綿毛の一つひとつに、なにか素敵なことがくっついて飛んでいっているイメージをもって、今日1日をやっていこうと思う。 あや
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