2週間ほどの予定で、実家からはるばる家事もろもろの手伝いに飛んできていた母を、空港まで見送った。今日は、いつもなら通らない阿寒横断道路を通って空港まで向った。途中、アイヌコタンで車をとめて、お友だちの郷くんフキちゃんのお店、喫茶ポロンノで昼食をとった。以前母が来たときにも、Katzに連れられポロンノでとった食事が本当に美味しく、体中に沁み込んだと話す母は、今日も「ああ、これやったこれやった」と懐かしい舌の記憶と今まさに口にしているお料理の味が重なり、本当に美味しそうに最後の汁まできれいに頂いていた。
私達が入店した時分には、私達のほかにもう一組が食事をしていただけのポロンノも、気がつけば満席となり、また新たに中年のご夫婦が「席、空いてますかア?」と入り口から細長いポロンノの奥に声をかけていた。「すぐ、ここ空きますう」とその方たちに声をかけ「ここは私がだすわねえ」と財布に手を伸ばす母のこめかみに混じる白髪を見たとき、急に涙が出そうになった。急いで「私が出す出す」と言いながら忙しそうに切り盛りするフキちゃんにお代を払ってポロンノを後にした。車に乗ってからも、母はフキちゃんがうんと綺麗な人やとそのことばかり話し、最後に「あんなに綺麗やもの、郷くんが気に入るのもわかるねえ」などと、私に言っているのか独りごちているのかわからないような口ぶりで、窓の外に向ってブツブツ言っていた。
8年前長女を出産してからこれまで、たびたび手伝いに来てくれる母であるが、ここ数年は年に2回は必ず、緊急で子どもの一人が入院などという突然の事態にも、航空券代などは一切気にせず飛んできてくれていた。そのたびに大きなバックパックに魚や野菜をどっさり詰め込んで来るのであった。その一つ一つが父の手によって天才的に梱包されていて、その荷解きをする時でさえ、しっかり結わえられたビニール紐の結び目に「親の愛」というものを感じることができる。荷造りをしている父には、荷解きをしている私の姿や果実をかかえる孫たちの喜ぶ姿がずっと頭の中に思い描かれているに違いないことが、はっきりと見て取れる。
山登りが好きな母は、これまで何度かKatzや辻谷商店のスタッフなどとこの近辺の山にも登った。ポロンノの郷ちゃんには、キトピロ(行者ニンニク)採りに森深くまで案内してもらったこともあって、いつも「ああ、楽しかった。もういつ死んでもえいばあ楽しんだ」などといってカラカラと笑う。今回は私の長女と私と母の3人で、初めて西別岳にも登った。「ここは、おばあちゃんにはピクニックや」と軽々登っていく姿を、孫である7歳の長女は息を切らしながら追いかけていた。
そんな風な母であるが、いつの頃からか「もう、次はここへ来れんかもわからん」と言うようになった。そんな言葉を聞くにつけ寂しいような困ったような気持ちになる私達をよそに、本人はカラカラとしている。老いていくということよりも、人生にはなにがあるか分からないのだからというような気持が込められているように思うのだが、私にしても母と過ごす一つ一つを、どこか意識して記憶に刻むようなクセがついてしまっている。いつかは必ず終わりが来るであろう何気ない日常の一つ一つを、できることなら1滴残らずこぼさないでいられたらと思う気持ちにちかい。子供達にしても、この幼い時代はいつか(それも思っている以上に早いいつか)終わりが来る。そんなことを考えているから、私は今を生きていると同時に思い出の中に生きているというような感覚が、平行してある。今日の母の姿も、もう思い出の中にある。
今回ひとつだけ残念だったことは、母の口から「もう、役にたたんなったねえ」という言葉が出たことだった。実際は全くそんなことはなかったのだけれど、「そんなことないって」と言えずに何度か白い時間が過ぎた。「そんなことないって」。簡単な言葉なのに家族がゆえにかけられない言葉があるように思う。仕事と育児に不器用な娘と、忙しい母になんとかすがり付こうとする孫たちを目の当たりにして、多少の無力感もあったことだろう。母の手助けに感謝すると同時に、気がつけばまた同じ場所に立っている自分を思い知り、夏はいつもこんな気持ちになるなあと可笑しくもある。
本日の辻谷商店、いつもなら水曜日定休にもかかわらず沢山の方々に来ていただいていたとのこと。「今日も(カレー)沢山作ったで」というKatzは、ビールとハンバーガーの後、早々と寝床に入った。私は、明日からの辻谷商店を楽しみに眠りにつくことができる。家族旅行の方が沢山訪れるこの季節。この町でいい時間を過ごしてもらえたら、と、お客さんの姿に我が家族の姿をかさねたりしている。 あや
素敵なお母さんですね。
そしてあやさんも・・・。
〉私は今を生きていると同時に思い出の中に生きているというような感覚が、平行してある。
この感じ、わかる気がします。
子どもを持ってから、そういう感覚持つようになったような。
投稿情報: poco | 2010/08/12 11:03
私も今は目の前に母が住んでいるが2年前まで離れて暮らしていた。15歳で親元を離れ、年に2回ほど実家に帰る。
たった3泊ぐらいだけど帰る時には(母を一人残していく行く淋しさ)で車中泣きながら帰った事も多々ある。
いくつになっても母は偉大で最後には必ず助けてくれる。
私も子を持ち母の大変さが少しわかってきたけど子供に何かあったら母のように出来るのかな?なんて思いながらいるよ。
明日ツーリングから娘が1週間振りに帰ってくるね(^v^)
やっぱり感動するのかな?
少し成長した我が子に逢えるのが新鮮で今から想像すると鼻の奥がツーンとするわ。
投稿情報: ハオハオ母 | 2010/08/12 20:31
pocoさん
丁度、釧路でジャンベのワークショップに参加している
という方が辻谷商店にみえ、pocoさんのことを思い出し
て「女性の方もいらっしゃいますよね?」とお話しして
いた後にコメントに気づきまして、ビックリしました。
そうですね、私も子どもをもってから、そして親元を
離れてからこういう風に感じるようになったと思います。なんだか同じような気持ちでいる方が居る、という
のは嬉しいものですね。ありがとうございます。
9月、ピカイヤのライブでまたお会いできるのが楽しみ
です!
投稿情報: あや | 2010/08/12 23:41
ハオハオ母ちゃん
まだまだ、バリバリ元気なハオハオ母ちゃんの母ちゃん
も、何年も前から娘から離れて暮らしていたんだよね。
なんか二人の母娘関係には沢山の歴史を感じるわあ。
そうやってひとり立ちしてきたハオハオ母ちゃんにも
歴史あり!だね。
明日はいよいよ娘たちが帰ってくるね。何だか今のとこ
ろ妙にあっさりした感情の鬼母な私だけど、ゴールの瞬間は泣いたりするのかなあ。ハオも真っ黒さね。楽しみ
だねえ。
投稿情報: あや | 2010/08/13 00:14
あやちゃんをみてるとあやちゃんのお母さんってとっても素敵な女性なんだろうなあ、いつかお会いしたいなあって思っていました。そして、あやちゃんの育った地元高知に行きたいとも思っています。
同じ北海道ではあるけれど母と離れて子供を産んで育てていた当時は母しか私を埋めることができないなにかがあって、母が来てくれると瞬間に血が通ったようなそんな正常な自分になりました。
あやちゃんのお母さんに私がなれたらいいのになあ。そしたら一緒に子育てをしてごはんを作ってねー。
投稿情報: えりか | 2010/08/15 17:16
エリカちゃん、元気かな?いつもありがとう。
先日、急用で中標津に夜車を走らせて行ったとき
窓越しに忙しそうに切り盛りしているエリカちゃんと
その奥の厨房にいるアッキくんを見たよ。頑張っている
ね。それだけで嬉しくなってしましました。
母と今回フェネトレに行けなかったけど、次回母と
行ける事を楽しみの一つにしているね。
もう秋の匂いがするね。会いに行くからね。
投稿情報: あや | 2010/08/16 23:59