1月8日 KOLKATA(コルカタ)
その日の朝あたしは、冷やりして清潔でとっても静かな場所に座っていました。あたしの前にはヨーロッパ人のお兄さんが手にジャラジャラしたお数珠みたいなものを持って、何やら口の中でモゴモゴ言っていて、右の奥の方にはインド人の女の人が、前の背もたれに倒れこむような格好でずっと俯いているのでした。母ちゃんはあたしとは反対の長いすに腰掛けて口をとんがらせたまま何かを考えているみたいでした。あたしがいつまでここに座っているのだろうかと、何度も目配せしたって、母ちゃんはじっと前を見たままあたしに気が付かないので、仕方なくあたしもぼんやり前を見つめていました。
そうこうしている間にも、白地に青い線の入った布を体に巻いた女の人達が、出たり入ったりしていました。ある人はお花の水換えをしたり、ある人はお花の飾ってある大きな台に頭を何度もつけてはモゴモゴ言っていました。そんな風にして、いろんな人が出たり入ったりするくせに、誰もコンニチハとかサヨウナラとかそういうことも言わずに、殆ど黙っているかモゴモゴやっているだけなのでした。
「マザー・ハウスという所に行くよ」
母ちゃんは出掛けにそういって、あたし達はここにやってきました。昨晩ホテルで会った日本人のお姉さんが、「私、マザー・ハウスで朝のうちだけお仕事してるんです」と母ちゃんに話しているのを聞いたので、あたしはてっきりお店か何かだと思っていましたが、どうもそういう所ではないようでした。
あたしはいよいよしびれを切らして、母ちゃんの座っている所に行って隣に腰掛けました。
「ねえ、この人達何をしているの?」
「お祈りしてるんだよ」
「いつまでここに居るの?」
「ここを出るまでよ」
それから、何人かの人がそれぞれお花の飾ってある大きな台の方にツカツカと歩いて行ってはお祈りをしてその部屋を出ていきました。私と母ちゃんはその様子をじっと観察していましたが、どの人もそれぞれのやり方でお祈りしているようでした。母ちゃんが「行こうか」と言ったので、あたし達はその台の方に行きました。あたしは母ちゃんのやるようにお祈りしました。まず、母ちゃんはその台の上に文字が彫られている方を見て「こんにちは」と言いました。それからペコリと頭を下げました。その後両手を合わせてから何やらブツブツ言っていましたが、その後あたしの手を取ってからその冷たい台の上に置きました。それから
「ここに来られて良かったと思います。」
そう言ってあたし達はお辞儀をしてから、その部屋を出ました。
その後、隣にあるマザー・テレサという人の写真とかメガネとかペンとかが展示されているところを見せてもらってから、少しだけその建物の中でボンヤリして、あたし達は外に出ました。
路地を入ると途端にコルカタの喧騒が嘘のように静かな、マザー・ハウスの入り口
「ねえ、マザー・テレサってどういう人なの?」
「そうだね、貧しい人達のために頑張った人、かな」
「有名な人なの?」
「そうだね、世界中にマザー・テレサを想っている人が居て、コルカタでも沢山の人が大切に想ってる。」
マザー・テレサという人がここコルカタで貧しい人達のための活動を始めたということ、さっき行ったマザー・ハウスがその中心の場所だったこと、それからマザーが死んでしまった後も、そういうことを引き続きやっている人達がいるということなど・・・あたしと母ちゃんは色々な事を話しました。
「昔、マザー・テレサに憧れてシスターになろうと思ったことがあるんだよ」
「それでどうしたの?」
「それで、お父さん(ってあなたのおじいちゃんだけど)に大人になったら修道院に入りたいって言った。反対されると思ったよ、だって家は仏教のお寺だから。だけど、おじいちゃん「いいよ」って言ってくれた。笑ってたけど」
それから、母ちゃんは手始めにカトリック教会でお掃除やお料理のお手伝いを始めたこと、そのうち1時間500円で働かせてもらえることになったこと、日曜日に教会にやってくる何人かの風変わりな人達の事を聞かせてくれてから、こう言いました。
「でも、途中でシスターになるのは無理だと思った」
「なんで?」
「我慢しなくちゃいけないことがいっぱいあるって分かったから。母ちゃんの行ってた教会の神父さんは、奥さんを貰わないでずっと暮らしていかないといけない決まりのある人達だったんだよね。それである時、母ちゃんは一人の神父さんに、その人アメリカ人だったんだけど、聞いてみたんだ。(もし、好きな人ができたらその時はどうするんですか?)って」
「そしたら?」
「そしたら、(そんなことは考えないようにする)って。(好きな人のこととかセクシーな事は頭の中から追い出すんだよ)って言ってた」
「へえ」
「(いつも神様のことを考えて、そういうことを頭から追い出すようにしている)って。それ聞いたとき、母ちゃんまだ15歳だったし、こりゃ自分には無理だわあってそう思った」
それからあたし達は、宿のある通りまで黙ってリクシャーに揺られて行きました。
「だけど、誰かの為に何かをするのって、そういうことなのかもしれないね」
「・・・・・」
「マザー・テレサという人は、きっとそういう人だったから」
母ちゃんは「言ってる意味わかる?」っていつも聞くけど、この時もそう言ってから
「だけどMは、マザー・テレサという人の名前と、今日あそこに行ったってことだけ覚えてればそれでいいんだよ」
そう言いました。この後の旅で、あたしは偶然ダライ・ラマという高知じいちゃんによく似た顔をしたお坊さんのお話を聞く機会に恵まれたのだけれど、その時も母ちゃんは同じことを言っていました。
「その人の名前と、今日その人に会えたということだけ覚えておいて。きっと何年かしたら、Mにもその事がどんなに素敵で、どんなにラッキーなことだったか分かる時が来るから!」って。
もう何度も行ったり来たりして馴染みになったSudder St.に戻ったあたし達は、あたしのお気に入りのカフェでこれまたあたしのお気に入りのミックスフルーツラッシーを飲みました。そこのカフェに入ると、ウェイターのオジサンがあたしの顔を見つけるなり、「ミックスフルーツラッシー?」って言うくらいでした。朝ごはんや夕ご飯は、昨日行ったインド博物館の隣に軒を連ねている屋台で食べました。とっても美味しいし、「もっと入れてよ!」とお願いすると、渋々だけどおかわりもくれるし、「日本に子供が居るんだよ」なんてオジサンがチャイをご馳走してくれたりもするんです。だけど父ちゃんの作るチャイの方が、スパイスが効いててずっとインドっぽいなって思いました。
「ねえ、もっともっと!」とか言うと「シャーナイね」と盛ってくれる屋台のお兄さん(コルカタ)
マザー・ハウスの後、Mはいたる所でマザーの絵や写真に気が付くようになった。「ほら、母ちゃんあそこにもマザー」「ほら、ここにもマザーの絵がある」そんな風にして、この国でマザー・テレサがとても尊敬されていることを感じていったようだった。彼女のお気に入りのカフェにもマザーの大きな絵があって、その周りには毎日カーリー寺院で見たのと同じマリーゴールドの花輪が飾られているのだった。Mはいつもその正面の席に座ってお気に入りのラッシーを2杯飲んではニッコリするのだった。
今夜は夜の列車でコルカタを経つ予定だ。夜の寝台車に乗って、次の町まで移動する。やっと笑顔を見せるようになってきたMの横顔と、その目にかかる延びっぱなしの前髪を見ていると突然いいことを思いつき、彼女を引っ張って通りの床屋の前まで来た。
「インドでヘアーカット!やっとく?」
「どのようにします?マダム」「ザックリいちゃって、ザックリ!」
「あんたの息子かい?」「いや、娘だよ」
「オイラも撮っておくれよ」 と床屋のセガレ
「おかあ・・(怒)」
「どうだい、おじょうちゃん」「けっこういいかも♪」
コルカタ ハウラー駅8時35分発DOON EXPRESS ガヤ駅行き
髪を切ったMは、それまでのルンタ帽(と彼女が呼んでいるフェルト帽)からコルカタ動物園前で買った麦藁帽に取替え、パックパックを背負って列車を待っていた。物凄い数のインド人たちが、一体どこまで行くのか駅のホームに座り込んで列車を待っていた。「ガヤ行きに乗るには、何番ホームですか?」幾人かのインド人に尋ねれば、幾通りかの答えが帰ってくる。この頃にはMも
「それがインド、ここがインド」
という訳で、全ては自分達で何とかしなくては結局どうにもならない事がわかってきたみたいだった。
髪を切る前からインド人からすれば男の子にしか見えなかったMだが、ここに来て誰がどう見ても男の子に違いなかった。
「なんかの映画でさ、女の子が男の子に成りすまして逃亡するやつあったけど、それみたいだよね。」
「またそんなこと言っちゃって」
「あったあった、うちらの名前あったよ!」
駅のホームには予約した列車番号のリストに私達の名前がきちんと印字されていた。
電光掲示板と、同じく列車を待っているインド人たちの動向を絶えず気にしながらホームを間違えないように気を張り詰めていた。発車時刻が大幅に遅れることも覚悟していたが、始発だった為か列車は定刻に動き始めた。私達は予約していた席を見つけると大きな荷物を足元に下ろし、とりあえず目的地に着くまではのんびりと列車に身を委ねていられる事に安堵した。寝台にシュラフを広げ、寝支度をしたMの目は興奮で殆ど瞬きするのを忘れているようだった。
コルカタを出発する。北海道でもなく、東京でもなく、ここコルカタからいよいよ全てが動き出すような気がしていた。目的地に列車が到着して、目覚めてからがきっとその始まりなんだろうという予感で胸がイッパイだった。Mも、シュラフに包まったまま天井にその先を見ていた。私もシュラフを広げ横になった。ふと日本から持ってきた「銀河鉄道の夜」の事を思い出し、バックパックのポケットから取り出した。これまでの色々な想いを乗せて、列車はゆっくりと一つ一つ確認するみたいにガタンゴトン、ガタンゴトンと走り始めた・・・・・
INDIA DAY4につづく・・・
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