1月9日 ガヤー駅~ブッダ・ガヤー
朝霧に衣服を濡らしながら、私達は狭い階段をガヤーの町へと駆け下りた。待合室を照らす蛍光灯が嫌に白々しく、私達は再び異邦人となった。昨日までのコルカタがとても遠く感じられ、コルカタの細い路地裏で出会った沢山の人懐っこい顔が恋しいほどだった。
コルカタ動物園前で買ったMの麦藁帽だけが、唯一の原色を放っている。列車に揺られ北西に一晩移動してきただけなのに、ここはとても寒く私達は季節外れで滑稽でさえあった。
ガヤーからブッダ・ガヤーまで、南に約16キロ。その道のりを私達はオートリクシャーに揺られて行った。相変わらず深い霧に包まれ、1メートル先もまともに見えないような道を運転手に託したまま、むき出しの車体から吹き付けてくる風に身を縮めながらMと抱き合うようにしてやり過ごした。霧とリクシャーの派手な飾りの隙間からは、壊れたレンガの瓦礫が見えるばかりで、時々霧の中から物乞いの老人や家畜のヤギが突然姿を現し、私達を驚かせた。その度に運転手がバックミラー越しに上目遣いでニヤリと頷いてみせるのだった。
体温が徐々に奪われていくのを実感しながらも、私はとても幸せだった。Mは何も喋らなかったけれど、日本を経つ頃より健康そうに見えた。コルカタで髪を短く切った彼女は、まるで少女なのを悟られないように身なりをサッパリと整え、何者かから逃亡している物語りの主人公の様にも見えた。
冷たい身体のその奥で、遠い記憶が後頭部をつたって瓦礫ヶ原に投影されていく。
まだ、6歳か7歳だった頃。とうとうその朝がやってきたのだという想いで、私は目覚めた。家中の者がまだ寝息を立てていることに安堵しながら、その頃取れたばかりの補助輪なしの自転車をそっと車庫から運び出した。砂利の庭を用心深く移動しながら、自転車の車輪がアスファルトの道に差し掛かった瞬間、一気にペダルを踏んだ。自転車はイメージ通りに滑り出し、家族の眠る小さな家から私の身体をどんどん遠くへ運んでくれた。我が家から150メートルほど延びたまっすぐな1本道が過去になった時、
「これで何もかも自由だ・・・」
そう思った。その時、「自由」という言葉を知っていたかどうかは分からないけれど、確実に初めて自由を身体で感じた瞬間だった。それから、みるみる太陽が昇り始め町が動き出そうとする時間をすり抜けるように国道を走った。いつもなら自動車や大型トラックが行き交う海岸沿いの大きな道を、堂々とその真ん中を走るのだ。夏には父親が海水浴に連れて来てくれる浜辺へとカーブを曲がる時、両足を大きく開いたまま、加速と遠心力に任せて滑る。全てが自分の思い描いていた通りで、まだ誰も足を踏み入れていない今日という日に自分が足跡をつけたのだという充実感・・・。太陽の高度が今日に差し掛かったのを合図に、大急ぎで家族の眠る家に戻り、車庫に自転車を納め、ベッドの上段ですやすや眠っている兄を確認してから寝床に入る。それが、自分の記憶にある最初の旅だった。
1時間くらい揺られただろうか?私達を乗せたリクシャーは初めて橋らしきものを渡り、沿道には小さな商店や露天が並び始め、行き交う人々の数も少しずつ増えてきた。運転手が
「ボード・ガヤー、ボード・ガヤー」
と言ってエンジンを止めた。「ブッダ・ガヤー?」と聞くと、そうだと頷く。ブッダ・ガヤーの町にもまだ霧が立ち込め、冷えた身体を温める為に早くどこかに宿をとりたかったので、どこか安い宿へやって下さいとお願いした。リクシャーは[LAXMI GUEST HOUSE]という小奇麗なゲストハウスの前に停まった。1泊Rp500は自分達には上等過ぎたが、暖かいシャワーがあるということでとにかく冷えた身体を温めようとここに宿をとった。
部屋に荷物を降ろすなり、私は靴のままベッドに仰向けになった。北側にある小さな窓から朝の白い陽射しが差し込むのを眺めながら、(この向こうはブッダ・ガヤーの町なのだ)ということが不思議だった。初めてガイドブックのブッダ・ガヤーのページを繰ってみる。紙面上に見る町並みや、世界遺産であるマハーボディー寺院などが窓の向こう側に在るという事実を、長い時間楽しんだ。風呂場では、Mが熱いお湯の出るシャワーで靴下を洗濯している。その姿をファインダー越しに眺めながら、
(もしもこの子が一緒でなかったら、自分には子供がいるということさえも忘れてしまうのではないだろうか・・・)
という思いが過ぎった。そして、3人の幼い子供達を置いて出てきたことを後悔する自分を期待した。けれど、寂しいとも心配だとも、早く会いたいとも思わなかった。その代わりに、
(あの子達は、自分達を置いていった母親をどう思っているのだろうか?)
と考えていた。末娘はもうすぐ3歳になるけれど、まだオッパイを必要としていた。生まれてから今まで、 彼女はそれなしで眠ったことが無かった。
北海道を出発する時、母ちゃんは弟や妹達に
「母ちゃんはインドにお買物に行ってくるから、いい子にして待っていてね」
って言っていました。だから弟や妹達は、「インド」というのはジャスコ、とかイトーヨーカドーとかそういう類のものだと思っているのだろうとあたしは思います。あたしはもう8歳だし、インドというのがよその国の名前だということはもちろん分かっていたけれど、その他には毎日カレーばかり食べている国、ということしか頭にありませんでした。だけどインドにはカレー以外の食べ物も沢山あるし、ここブッダ・ガヤーには、まるで日本人みたいな顔つきの人達が大勢いて、母ちゃんはきっとあの人達はチベットから来たんだろうね、と言っていました。
ここ[sakura green]レストランにはインド料理のほかにもチベット料理が沢山あって、ラーメンみたいのとかシュウマイみたいのとか色々で、豆腐の入ったカレーなんかもあって、あたし達はとにかく何でも良く食べました。
そう、このレストランは地元のASHOKさんという人に教えてもらって来たのですが、今日はこれからそのASHOKさんのバイクに乗ってあちこち見て回ることになっているのです。 コルカタでは、「案内してあげる」と言ってついて来るインド人全てをお断りしていたので、あたしは母ちゃんがASHOKさんの申し出をあっさり受けたことが、本当に不思議でした。最初母ちゃんはASHOKさんにも「自分達でゆっくり歩きます」って言っていました。だけど、ASHOKさんはずっと私達の少し前を歩きながら色んな話をしました。sakura greenの入り口まで来た時、母ちゃんはニッコリ笑ってASHOKさんに手を振りました。それであたし達はここで食事を済ませた後、ASHOUさんとすぐ近くのバスターミナルで落ち合うことになっていたのです。
あたしと母ちゃんを乗せたASHOKさんのバイクは、あたし達が今朝早く渡ってきた橋を逆戻りし、草だらけの小さな道をどんどん行きました。ナイランジャラー川には水が1滴も無く、そこでは小さな子供達が遊んでいるのが見えました。バイクがデコボコ道を大きくバウンドするたびに、あたしはASHOKさんの上着の裾をギュット掴み、母ちゃんは大声で「ヒャッホー♪」と叫んび、ASHOKさんが笑いました。
スジャーターから乳粥を貰うブッダの像の前でポーズをとるチベットのお坊さん
あたし達のバイクは、細い細いデコボコ道を陽気なヘビのように這いながら、ブッダが覚りを開く前に苦しい修行をしたといわれる前正覚山や、修行でやせ細ったブッダがスジャーターさんという女の人から乳のお粥を貰ったとされる場所、ASHOKさんが「トトロの木」と呼ぶ大きなガジュマルの木、そしてのん気な田園風景の続くセーナー村などを、風なって走り抜けました。バイクが時々大きなくぼみや深い雑草に車輪をとられると、あたし達は簡単にそこいら辺に投げ飛ばされるのですが、そのたびにお腹を抱えて大笑いし、ASHOKさんも笑いで涙を流しながらバイクを起こしにかかるのでした。
ASHOKさんちの帰り道、Mはちょっと不安そうにこう尋ねた。
「ねえかあちゃん、きっとあの人もお金くれって言うかなあ?」
コルカタでの数日間で、幾度となくそういう場面に遭遇し、夜のマーケットでしつこいスパイス屋から全速力で逃げ帰ったこともあった為か、Mはそういうことに敏感になっていた。リクシャーを降りた途端に約束していた料金が「フィフティーン」から「フィフティー」に変わり、その度にもう一度やりとりが必要になることにも慣れてきた頃だったと思う。
最初からガイドに対する報酬は当たり前だと思っていたけれど、コルカタではとにかく自分達だけで歩いてみたい気持ちが強く、ガイドを必要としなかった。それはお金云々のことではなく、とにかくMとの歩幅さえも掴みきれず、Mとういう1人の人間に対する後ろめたさから来るエゴイスティックな配慮からだったと思う。望みもせず、何の選択肢も無いままインドに連れてこられたMにとって、インドで出会う人、出来事、観るもの全てが彼女の中に土足で入って来た。だからせめて、半径1メートル以内には誰も入れてはならないのだという、せめてもの母親らしい配慮なのだと。
その日の夜、世界遺産であるマハーボディー寺院を訪ねた。寺院はおろか、観光名所に殆ど感心の薄い自分であったが、その足元に立ち寺院のテッペンを見上げた時は本当に幸せな気持ちになった。もう夜の8時過ぎだというのに、寺院周辺には大勢の参拝客がおもいおもいに歩いたりひざまずいたりして、ライトアップされた寺院がブッダ・ガヤーの夜空に君臨していた。
「世界には、見たことも無い素晴らしいものが沢山沢山あるんだろうな。」
どこかで聞いたような言葉が素直に胸を過ぎり、インド全図が頭上に浮かんだ。自分達はまだその上のほんの数センチしか旅をしていないのだと思うと、もうどこまでもどこまでも行ってしまいたい衝動に駆られた。
明日の朝早くもう一度ここを訪れる約束をして、Mと手を繋いで暗い夜道を宿まで歩いた。私達の宿は寺院からは離れた場所に位置していた為、少しずつひと気が薄くなり、オンボロな電柱の明かりだけを頼りに歩いた。民家からは団欒の温かさがオレンジ色をしてドアの隙間から漏れていた。カメラにおさめるには光の足りないそういう風景を、祈るような気持ちで記憶に閉じ込めようとしていた。
宿に戻った私達は、5日ぶりに温かいシャワーを浴び小さなバスタブに湯を張って無理やり体を沈めた。日本からくっつけてきた何やら小さな取るに足りないような事柄がバスタブに溶け出して、トラベル用のボディーシャンプーのデザインが何だか下品に見えた。突然Mが、
「あ、母ちゃん・・・」
と言った。視線の先をみると、湯船に浸かった自分の乳房から、母乳があふれだし湯が白濁しているのに気がついた。もう5日間あげることの無かった母乳は、このまま止まってしまうだろう、、そうして、約10年間続けてきた授乳をやめることになるだろう、、と思っていた。自分の思いとは裏腹に激しく分泌を続ける乳房を見つめながら、急にポロポロと涙がこぼれた。身体をさらに小さくし、頭のてっぺんまで湯船に沈みながら、本当に長いこと私は泣いた。悲しかったからではない。自分の中に「母性」の在ることが心底嬉しかった。そしてこの旅で初めて、(子供達に会いたい・・・)と想った。
夜のマハーボディー寺院でキャンドル売りの商売をするお姉さんと兄弟たち
INDIA DAY5へつづく・・・
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