夏らしい食材を前にして・・・ということではなかった。ただ、朝食の為に味噌汁のネギを刻んでいただけだったけれど、確かに「夏が来たのだ」と思った。かすかな夏の湿度と小さな窓から射し込む斜光が、立ち昇るネギ臭さと相まって、まな板の上に夏を連れて来たのだと。
全て刻み終わった時、ふと何処かの台所でも似た様な心持ちでまな板の前に立つ女が居るのではないか、いや、居るに違いないと確信した。そしてそれはきっと、日本の女でないと感じ得ない感覚なのだろう・・・そんなことを考えていた。
プラスチックのまな板には夏は来ない。そうも思った。以前暮らしていた家の床を張り替える時にでた木材の端切れを、まな板として使って来た。沢山の傷があり、そこかしこが黒ずんでいる。思えば実家の台所にも似たような顔をしたまな板があり、今は亡き祖母の台所にもあった。あのまな板は何処へいったのだろうか。
夏は過去を想う。先に逝った人たちを想う。
そういえば数年前の夏にも同じような心持ちになったことがあり、想いを書きつけたことを思い出す。どうしても引っ張り出して来なくてはいけない衝動に駆られ、まだ荷解きされていないノートの束から見つけ出す。読み返してみれば、その年の「夏」は今時分よりももう少し後に来たのだなとわかった。そしてまな板の上に在ったのはネギ、ではなく、コウロギだったことも。
その年の夏、思いがけない死が在った。
今年の夏とその年の夏の気持ちがかさなる。
まな板の上のコウロギには
何処かへ飛んでいっておくれ、と願いつつも
つまみださないでそっと眺めていたいような
そんな佇まいがあった
この地方にはめずらしく
蝉の鳴く声が
おもてで夏を演っている
気がつくと
まな板の上のコウロギは
もうそこには居なかった
今年は秋が遅いというに
コウロギだけが
いやに律儀にやってきた
まだ季節には時間があるに
まな板の上にまで現れて
髪の毛1本にふれるささやかさで
心の淵を跳ね台にした
いやに長い夏の余韻に
入道雲が今日も
合成写真のようで眩しすぎる
(2007・8)
机の上に、母方の祖母の片身としてもらってきた黒電話を置いた。ダイヤルの真ん中には印字された電話番号が今も薄く残っている。時々、受話器を置いたままダイヤルを回してみる。数字一つ回すたびにジーコジーコともとの場所に戻っていく感覚が懐かしい。受話器を上げたり置いたりする時に、チーン!とひとつ音がしたものだが、今はもう聞けない。
耳を澄ます。受話器は今のそれよりずっしりと重く、そして確かに繋がっている。この時代をどういけばいいのか、ちょっとだけ先回りしてそっと耳打ちしてくれているような、そんな気がしている。
どうか、この夏が皆様にとって喜びの多い季節となりますように・・・
心の一番深いところから
辻谷商店 A
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