明け方帰宅した彼の肩の上に、なんだか見慣れないものが降り積もっていたもんで、アタシは珈琲カップを持っていない方の手でそっとほろってやった。そしたらバラバラとちいちゃなものが床に散在して、良くみたらそれは黒い50音だった。しゃがんでつまみ上げようとしたら、チクリと人差し指に痛みが走って、それはみるみる紅い玉になって膨らみ、息を吹きかけると指紋のワダチへと枝分かれしていった。
仕方が無いので、ホウキとチリトリでザラザラとかき集め、薪ストーブの灰の中へ突っ込んでみたものの、何故だか捨てたはずの50音達が暗闇の中で相談ぶっている気がして、もう一度ストーブを覗いてみた。しばらく灰の中のそれらを眺めていたけれど、こそこそやっている風でもなかったので、もう一度蓋を閉め、きっぱりと取っ手を下に引き、そこで初めて息をしたような気がする。ピタピタとくっつくような感触があり見てみると、手の平が血だらけになっていて、慌ててティッシュで拭こうとしたら、今度は紙が貼り付いてえらいことになったので、急いで台所に走り洗い流した。
その日は1日中、鼻だけで息をして過ごしたような気がする。
残りの50音をお風呂で洗い流した彼は、ベッドに仰向けになって、天窓から空を眺めていた。冬の間、雪に閉ざされた天窓は、この頃になってようやく雪が溶け、そこから空がまあるく覗いた。アタシは冬眠から目覚めたヒグマの気持ちがする、ということを、彼が帰って来たら話そう話そう、と思っていたけれど、自分も隣に横になって空を見上げたら、どうでも良くなってやめた。
うつらうつらの波間に見えるのは、帰り道だった。厚い背中越しなのはアタシがおばあちゃんの背中にしがみついているからで、時々景色がポンと跳ねるのは、アタシ達が鉄の自転車に乗っているからだった。おばあちゃんの綿入れのソータに、アタシの悔し涙が沁み込んで、帰り道が歪んで見える。軒先の干物の匂いで我が家への曲がり角を知り、そこから後は長い一本道が続く。アタシはいつも、この車輪の中に足を入れたら、一体どうなってしまうんだろう・・って思っていた。お兄ちゃんに聞いたら、「そんなことしたら足が折れるぞ」といい、現に同級生の中村君がそれをやってえらいことになったとかで、そういえば中村君はいつもどこかしこに赤チンで治療した跡があって、アタシは密かに中村君を尊敬していた。ザザザーーーっと砂利を寄せる音がして、おばあちゃんの自転車が停車した。ブレーキがあるのに足で停車するのはこの辺りの年寄りのやり方だった。結局、今日も車輪に足を入れてみる勇気の無かった自分に、がっかりした。
庭で枯葉をかき集めていた父さんが、手を止めてアタシを抱きかかえ、自転車から降ろしてくれた。「おかえり。また誰ぞとケンカしたがかや」と言うので黙っていたら、「顔にかいちゅうぞ」と笑った。
土曜のお昼は決まって父さんの作るインスタントラーメンだった。「けんどよ、いじめられる子うも可哀想やけんど、いじめたり嫌なこと言うたりする子うも可哀想やでえ。人をいじめたり嫌なこと言うたりせなあいかん気持ちいうがは、そりゃあ大変なことよ。のびるで、はよう食べ」「ほうやけん、お前は友達に意地悪する子うにも、うんと優しゅうしちゃり。ようしちゃり。わかったか」父さんは言った。ラーメンはいつも、味噌味だった。
目が覚めたら、相変わらず天窓からは空がまあるく覗いていた。時計を見たらまだ15分しか経っていなくて、隣を見ると、彼はさっきまでと同じ格好で眠っていた。
ベッドから這い出して洗面台で顔を洗って髪を結わえた。表に出ると、太陽が眩しくて、本当に冬眠から覚めたみたいだったし、ツララからは長かった冬が溶け出していた。この太陽はいつかどこかで見たことがあると記憶を辿ると、それは倉敷の大原美術館に在る1枚の絵だった。1人の屈強な男が振り上げる斧のその先に、こんな太陽が在った。いつかまた、あの絵の前に立ちたいと思った。それからもう1枚、好きな絵があって、それは確か「想い」という絵だったこと、カリエールとかいう画家によって描かれたことや、その絵を知ってからというもの、アタシは「思い」と「想い」を使い分けるようになった、というような事を思い出していた。
捨てたはずの50音がテーブルの上に散らばっていたので、それらを組み合わせて詩のようなものを作った。珈琲を入れて、テーブルに戻ってみると、いつの間にか違う配列になっていて、それがアタシを元の場所へ戻してしまった。並べても並べても磁石みたいにくっついて配列を変える黒い50音たち。
彼に黒い50音をくれた人について考えた。なるべく、父さんの教えてくれた方法で。父さんの方法なら、きっと可哀想な人なのかもしれないけれど、そもそも、何を幸せと思うかという肝心な部分が、アタシとはキッパリと違っているのだろう、という結論に達した。それで、「幸せ」についても考えてみる必要があった。「幸せ」を手に入れるために何を選び、何を捨てていくのかについて。アタシが選ぶものと、その人が捨てるものが沢山重なった。それからアタシは(ああ、アタシの方がきっとマットウかもしれない)と思った。それから、そういう自分の心にがっかりした。
ある人が、「書くことで次に行けることもある」と言っていたので、書き始めたら止まらなくなった。そうしてずっと書き続けていたら夜になった。その側で、最近やたら絵を描き続けているF太郎が1枚の絵をくれた。「母ちゃん、太陽」。F太郎の太陽の真ん中には、両手を鳥のように拡げた人間が描かれていた。
わたしは文ちゃんの50音によって救われ、自分のこころのずーっと深くにある場所まで行くことができる。いつもその場所に居続けるには訓練が必要で、わたしはその場所から気付くといつの間にか出ていたりして自分にがっかりするのだけど、いつの日かその場所が自分そのものになれる事を信じて今日も生きています。
投稿情報: えりか | 2012/04/06 19:27
えりかちゃん
私も同じ事を同じような言葉で想っています。ありがとう。近いうちに会いに行くね。会いに来てねえ。ありがとう。
投稿情報: あや | 2012/04/07 09:26