10月4日、初めてその写真集を手にした時のことは一生忘れることができません。そしてその日、まるで30年前の自分と全く同じような表情をした娘のMは、キッパリとこう言いました。
「母ちゃん、この馬達に会いに行こう!」
その写真集とは、[Lungta Paradise lost#1]。写真、映像作品や音楽を通して、東京を拠点に表現活動をされている、釧路出身の山田岳男氏による作品です。
日清・日露戦争時代に、国策によって北海道の在来種と大型馬ペルシュロンなどを掛け合わせ、最強の軍馬育成を目指して改良された馬達の末裔を、氏が根室半島にて撮影されたもの。この写真集が届いた時の手触り、心触りは、今でも昨日のことのように記憶しています(その時の気持ちは、10月6日のブログに記しました)。私の中では、時代に翻弄されながらも自分達を取り巻く厳しい自然や、否応なしに移り行く役割を受け入れ、穏やかに命を繋いでいく馬達の姿に亡き祖母の影を見、それはいつしか、郷里を離れてこの道東で暮らすことを選んだ自分自身の人生とも重なることとなりました。そして今、目の前にいる、自分の幼い頃に良く似たMの中にも、ルンタ(馬)達が確かに住み始めたのです。そのことにもし名前をつけるとしたら、それはきっと「希望」の二文字しかないんだ、とそう想いました。
その夜、私達はその旅のイメージを画用紙に描き付けました。名づけて"Lungtaさがしの旅 2010"。私は色鉛筆でMの後姿を描きました。頭には彼女のお気に入りの3色の鳥の羽のついた帽子、私の好きな彼岸花も1本加えました。それから右手には彼女が父親からもらって大切にしているアンモナイトの化石入り巾着袋。左手には釣竿。背中のザックからは地図と笛と、それからもちろん写真集「Lungta」。
それから2ヶ月足らずの間、Mは毎日うつむき加減で学校に通っていましたが、とうとうその日がやってきました。11月26日、27日私達は根室半島目指して2人だけの小さな旅に出ました。この旅には、是非ともKatzのオンボロディーゼル車で行かなくてはならない、と言う思いがあり、それにはMも賛成でした。それから、週末とかではなく、あえて学校のある平日という日常を抜け出していくべきだ、という私の根拠のない確信の為、初日をあえて金曜日にあてました。
こうして私達はオンボロディーゼル車のエンジン音を体中に感じながら、半島目指して出発しました。
出発の朝。片目しか見えないこれまたオンボロ双眼鏡を手にしワクワクしているM。
その日、根室地方は昼過ぎから強い雨になるという予報どおり、虹別~別海を過ぎたアタリからかなり強い風雨に見舞われました。ワイパーをぶんぶん揺らし、カーオーディオのボリューム全開でMのお気に入り、サケロックの「ホニャララ」を聴きながら道を急ぐ。日没の時間が日に日に早くなってくる道東地方。一刻も早く根室半島を目指さなくては、という思いでオンボロ車のエンジンも唸っていました。
眠い目をこすりながら、助手席で地図とにらめっこしながら走っている場所を必死で辿っていたMは、自分達が今居る場所は、まさに根室半島の付け根部分だということを知ったとき、目を輝かせてこう言いました。
「Aちゃん、いよいよここからが冒険だね。あの写真の馬だったら絶対わかるよ!」
そうして私達は、地図の中の細長く突き出た半島部分へと入っていくイメージとその現実がいま重なっていくことを実感しながら、納沙布岬目指して進んで行きました。
強い風 雨の中、突然目の前に恐ろしく大きな風車が現れました。
この日、根室は本当に強い風と雨で、車の外へ出ることも困難なほど。写真を撮ろうにもカメラが雨でダメになってしまいそう。ルンタ達の姿どころか、何メートルか先の行く手さえやっと見えるような天候でした。なんだか本当に最果ての地に来たんだな、ということを実感しました。私は、北海道に来てから初めて自分の意思で(行ってみたい!)と想った場所に今いること。そして自分をここへ連れて来てくれたのは、この1冊の写真集なのだ、と改めて実感しました。Mがカバンに入れてきた写真集は、もう既に表紙がボロボロになり、すっかり誰のものでもない私達のモノ、となっていました。
ルンタ達の姿を探す事もできず、たまらず写真集を見ながら車内でスケッチするM 。
一旦、納沙布岬まで走ったもののほとんど何も見えず。私達は納沙布岬灯台を、各々のスケッチブックに描きました。それからもう一度半島の南側を、もと来た道を引き返す途中、丘の中腹に馬達の姿をかすかに見つけました。
立ち入り禁止の柵のずっと遠くに馬達の姿が見える。「だけどあれはルンタ達じゃないよね」とMは言う。
弟子屈を出発するのが遅かった為、結局初日は すぐ日没を迎えてしまいました。ルンタ達に会えなかった事と空腹の為、ちょっと不機嫌なMをなだめながら、今夜の宿を探すことにしました。根室駅のインフォメーションセンターのお兄さんは何だかとっても忙しそう。仕方が無いので市内の宿マップだけもらって、Mと2人、今夜の寝床を探して、初めての根室市内の夜の街をゆっくり走りました。
「民宿たかの」の看板を目にしたとき、Mも私もなぜだか(ここだ!)と感じました。早速宿の前に車を停めて玄関を開けると、宿主のおじさんが快く迎えてくれました。それほど新しくはないけれど簡素で、どこもかしこもお掃除が行き届いていて懐かしい匂いのする宿でした。施設についての説明を一通り受けた後、階段を上がってすぐの約10畳ほどの部屋に荷物を置いてホッと一息ついていると、宿主のおじさんが上がって来ました。おじさんは根室半島に生息する貴重な野鳥について精通しているらしく、半島の地図を広げ、ここに行けば今はこんな野鳥が見られるとか、この岬の地形はとても珍しいから時間があれば寄って見て行くといい、などと沢山のことを教えてくれました。壁には野鳥のポスターなどが貼られ、本棚にはもうずっと昔からここにあるんだろうな、という風な古い訂装の本がきれいに並べられてありました。
「私達、馬達に会いに来たんです」と私はおじさんに言いました。その時、写真集を見せようかと思ったけれど、できませんでした。何故だかそういうことは、作者でない自分がすることじゃないような気がしたからです。私がルンタ達のことを話し始めると、おじさんは良く知っている、と言うように私の目を見て大きく頷きました。
「じゃあ、ユルリ島の馬達のこともご存知ですか?」
今回の旅の目的は半島に暮らしているルンタ達に会うこと。それから私にはもう一つ、落石の沖合いに浮かぶ「ユルリ島」という島に取り残されて、本当に野生化しているという約20頭のルンタ達の姿を見る事でした。ユルリ島には、環境・野生動物保護の観点から一般人の入島は殆ど不可能に近いということで、せめてネイチャークルーズのボートに乗せてもらって島の近くまで接近し、一目でいいからルンタ達の姿を見たい、と思っていました。その為、もう何週間も前から落石のネイチャークルーズの方と連絡を取り合っていたのだけれど、あいにく乗船客3名から出航ということで他に予約するお客さんも出てこず、今回はそれも諦めなくてはならない状況でした。受付のお姉さんは最後まで、「万が一、ギリギリで予約が入るかもしれないから、その時は携帯電話に連絡いれますからね」と本当に親切な言葉をかけてくれました。
「私はそのクルーズの船頭もやっているんだよ」とおじさんは言いました。何だかこの宿に来た事が本当に嬉しく、思わずおじさんに抱きつきそうになりました。おじさんは地図の上に、半島でルンタ達に会えそうな場所に大きく○を付けてくれました。それからユルリ島に最も近い岬の場所にも○を付けました。「ここからだったら、双眼鏡があれば何とか野生馬達の姿が見えるかもしれないね」と言いました。
おじさんは以前、島のルンタ達が増えすぎたり近親で交配してしまうのを防ぐために、島から雄を何頭か間引きするのを見たことがあると話してくれました。その時見た馬は、明らかに普通の馬とは違っていたと言います。「身体は黒光りしているし、骨格筋肉が全く違うんだよ。たてがみは片方がこんなに(と右側の髪を長くとかしつけるような仕草で)長く伸びていて、本当の野生馬だったよ。もう全然、普通の馬とは違う。」
「今、ユルリ島に居るのは25頭くらいだよ。そして、今は雌馬だけなんだ」
そのコトバを聞いたとき、あまりに突然のことに、私は何秒か鼓動が止まった気がしました。おじさんは引き続き何かについて喋っていたけれど、音声をOFFにしたテレビでも眺めているように、その口だけが動いて見えました。
「え?今、ユルリ島にいるのは雌馬だけなんですか?」
「そう、雌馬だけ25頭。実はあの馬達には持ち主がいるんだけどもうご高齢でね。自分では管理することが出来なくなってきたからと、雄馬を全部引き上げてきたんだ」
その夜、私はなかなか眠ることができないでいました。ユルリ島にたった25頭、雌のルンタ達だけが暮らしている姿を天井に何時間も映していました。これから根室にも、長く厳しい冬がやってきます。島一面が雪で覆われた後、彼女達は何を食べて生きていくんだろう?おじさんは、「冬の間に誰かが餌を与えに行く事はないよ」と言います。彼女達はどうやってこの冬を越すんだろう?何を想って暮らしているんだろう?これから始まる長い冬と、雄馬達の居ない環境に、いずれ淘汰されていくかもしれない運命に気がついているのだろうか?それとも、そんな運命までをもあの優しい目をして穏やかに受け入れて生きているというんだろうか?何だか色んなことが分からなくなってきました。隣で寝ているはずのMも、いつまでも寝付けないで布団の中で何度も寝返りを打っているのを感じました。
明日こそルンタ達に会いたい。できることなら、ユルリ島の雌のルンタ達の姿をこの目で見たい。そう想いながら、いつの間にか眠っていたようです。
夜明けの根室市内の住宅地
「民宿たかの」の窓から見た、朝の根室
さあ、今日こそはルンタ達に会うことができるだろうか!本日はまず、おじさんの地図を頼りに根室半島を北回りに出発します。
お天気は上々です!!