日頃より辻谷商店・つじや食堂を可愛がって下さり、本当にありがとうございます!
只今、店主Kがインド出張の為、今年の食堂の営業は終了致しました。いつもより早い終了となり、本当に申し訳ありません。辻谷商店は変わらずはっちゃき営業しておりますので、どうぞ宜しくお願い致します。年末年始の営業は下記の通りとなりますのでどうぞ宜しくお願い致します。尚、吹雪で自宅が陸の孤島化するなどの理由でお店が臨時休業の場合もございます。遠方よりお越しの方は宜しかったらお電話にてご確認下さい♪
◎辻谷商店・・・年内は12月25日(日)まで営業 水曜定休(但し、11月23日祝は営業、翌日代休)
営業時間 平日10時~17時 土日祝祭日10時~18時
新年は辻谷商店・つじや食堂とも、1月7日(土)よりスタート致します!宜しくです!!
賞味期限切れの長女とのインド旅日記をしつこく連載しています。ほんと申し訳ありません。万が一、興味を持ってくださった方は、当ブログのカテゴリー「INDIA 2011」でDAY1からどうぞ暇つぶし下さい。宜しくお願いいたしまっす。 ツジヤ アヤ
1月10日 ブッダ・ガヤー
霧と寒さを、私達は各々のベッドの中でお日様が大気を温めはじめる時間までやり過ごしていた。Mは日本から持ってきた唯一の漫画「ワンピース」の番外編を、もうページが扇状にバサバサと開いてしまうくらい何往復もしていた。にも関わらず、同じページの同じコマに差し掛かると必ず「ねえ、母(かあ)、ココ読んで、ココ!」と吹き出しそうになるのをこらえながら見せてよこし、そのたびに私は「ああそれ、もう何回も見たしイ・・オモロイヨネ」とか何とか言って、後はまたそれぞれ別段何を話すでもなく、時間が過ぎるのを待った。私はといえば、「ノルウェイの森」。特に読みたかったとか村上春樹さんのファンだとかいうことではなく、というより自分には殆ど読書経験というものが無かったので、町で唯一のT書店で何となく聞いた事のあるタイトルといえばこの「ノルウェイの森」しかなく、後はさて続きもの小説の3巻のみだとかハーレクイーンだとか成功本の類のラインナップで、そしたらこれ緑と赤そろってるからコレにしますでブッダ・ガヤーでこのベストセラーを初めて読むとかそういう流れ。
Mは相変わらずゲラゲラと身をよじりながら定期的に笑っていたが、時折こちらをチラ見しているのが目の端に映る。私は、「ノルウェイの森」の展開と上下巻のクリスマスカラーの違和感と、ここはインドな現実に支離滅裂になりながらも、気持ちの片隅で昨晩の湯船でのことが気恥ずかしく、だからやっぱりノルウェイの森に逃避していた。
(M)あたしの隣にはずっとチベット人の男の子が立っていて、その子の手の中にはもう何枚も何枚も菩提樹の葉っぱが舞い降りて来る。時々ザワザワって風が吹けば、あたし達の間には何かがピンと張り詰めて、あたしもその子も、菩提樹の方へ両手を伸ばす。誰かが「あ」とか「おお」とか言うでしょう?そしたらあたしはどうしてもそっちの方を向いてしまう。それでハッとして彼の方を見た時には、もう葉っぱは彼の手の中にあるって訳。
マハーボディー寺院の裏手に在るこの大きな菩提樹は、その下でブッダに覚りが訪れたといわれる有名な樹だとか。チベットから来た人達はあたしとあまり変わらない格好をしていたけど、ヨーロッパや日本やアメリカなどから来た旅行者は、決まって色褪せたブカブカでヨレヨレのズボンを履いていて、髪の毛がすごく長いかもしくはヘンテコな帽子なんかを被っていて、その樹の下でしきりにお祈りをしていた。
「覚りって何?」
母ちゃんはしばらく黙っていたけど、「そういえば、知りません。」と言った。
Mはずっとずっと、菩提樹の葉が自分の手の中に落ちてくる時を待っていた。葉は青々としてめったな事では落ちて来ず、神聖な樹ゆえ揺すったり登ったりする訳にもいかないので、ただひたすら風と幸運を待つのみ。私は少し離れた場所に腰掛けて、その様子を眺めていた。
ざわめきがすぐ静寂となり、静寂がまたざわめきとなりながら、菩提樹の葉はゆっくりとでも次々と誰かの手の中に落ちていった。手にした者は周囲から羨望混じりの微笑みを受け、この1枚で幸運を約束されたのか、それとも手にしたことそれ自体が幸運なのか。他人の幸運に落胆することなく、Mはひたすら樹を仰いでいた。太陽の陽射しが菩提樹から延びたいかにも健康的な枝ぶりに分割され、Mの頬にガラスの破片のように降り注いでいたのがとても印象的だったのを覚えている。
風が吹き、見上げる者すべてが両手を伸ばし身をかたくした。一瞬をついてMがわずかに前へ歩み出た。菩提樹の葉が、意思を持って彼女の手の平にゆっくりと舞い落ちた。
(M)あたしが振り向いたとき母ちゃんもあたしを見ていて、その時母ちゃんが何を思ったかというと、コルカタで行ったカーリー寺院のヤギの断首式の時の事だったって。あの時あたしは母ちゃんがヤギが首を切られるのを見ているのを遠くから眺めて待っていたけど、その時の事をね、思い出すって言う訳。それで、その時のあたしの目が今あなたを眺めていた時の母ちゃんの目で、だからあなたはまだほんの小さな女の子だけれど、その瞳の奥レベルではあなたも私も同等だと思うのとか何とかそういう話。そういう時は言ってる母ちゃん本人にも良くわかってないんだけれど、まああの人は思いついたことをとにかくすぐ言わないと気が済まない人だから、あたしは黙って聞いてたけど。それにしたって菩提樹の葉が手に入ってあたしは本当に嬉しい。
私とMは菩提樹から少し離れた場所に腰掛けて、まだ幸運に手を伸ばし続ける人々を観察した。生温くなったコーラを飲みながらもう一方の手で葉っぱの茎を大事そうに持っているM越しに、フランス人の一行がガイド付きで菩提樹を見上げているのを眺めた。そのうちの数人が臙脂色の袈裟をまとった少年僧の頭を撫でたり、一緒に写真を撮っているのが見えた。写真撮影の後で少年は一行に両手を差し出すのだけれど、彼らはやんわりと微笑んでしかしそっと追い返すそぶりを見せた。少年は次の一行、次の一行と歩み寄ってはその都度、撮影に応じた。「絵図らとしての少年僧」をカメラに閉じ込めたら、彼らはもうそれで充分なのかもしれなかった。
フランス人の一行が去った後、少年僧が私達の隣に座ったのでその時彼の片方の目が白濁していることに気がついた。Mが「コーラ飲むかな」と言うのでコーラを指差して見せたらニッコリと頷いた。少年は2枚のラミネートされた印刷物を取り出して私達に見せた。そこにはもっと幼い頃の少年の写真と、病気で片方の視力を失ったので治療費が欲しいのだ、というような事が書かれてあった。印刷物を取り出す仕草と、私達を覗き込む表情があまりも滑らかだったことが何だか寂しく、差し出された両手に軽い虚しさを覚えた。それから(自分もあのブルジョアフランス人達と同じではないか)と思った。気がつけば少年の後ろには彼そっくりの父親が立っていた。わたしは「彼にコーラをあげてもいいか」と訪ね、父親はわずかに微笑んだ。それから父親に私達親子の写真を撮ってとお願いし、そのお礼にRs50を手渡した。それからMが彼らの写真を撮った。後で見てみると、私達の姿は写っておらず、代わりにマハーボディー寺院の後姿だけが残されていた。
Mと同じくらい、もしかしたらそれ以上に私は菩提樹の葉が欲しかった。もし手に入れることができたなら、そうだあの友達にあげよう・・・その葉を封じ込めた小さなノートを手渡している場面まで想像できるほどだった。きっと子供の頃の自分なら、飛び跳ねながら掴もうとしたに違いない。いつの頃からか、本当に欲しいものの前ではじっと耳を澄ますようになった。もしそれが本当に必要で、手に入れることが素敵なことだとしたら、それはきっと手に入る、慌てなくても。
(M)結局母ちゃんのところには菩提樹の葉は降っては来なくて、あたし達はお腹がぺこぺこだったので外へ出て何か食べましょうということになった。さっきの小僧さんは、やっぱり遠くの方で旅人相手に両手を差し出したりしていて、さっきまで一緒にここに居てコーラ飲んだはずだけど、もうあたしの事なんかすっかり忘れてしまっているみたいだった。そしてお父さんは、あらいつの間にかまた姿を消していて、あたしはそこいらじゅうを見渡したけどどこに居るのかさっぱり分からなかった。そうこうしているうちに、うちの母ちゃんまでどこにいるのか分からなくなってしまった。菩提樹の周りを1周してみたら母ちゃんはなんださっきの場所に居て、今度はまた違う小僧さんになにやらお願いされている風だった。
僧侶になる為の勉強をしているというその少年は、仏教を学ぶための本が欲しいからお金を貸して欲しいと言う。持っていませんほら、と鞄を見せれば宿はどこかと言う。ずっと遠くですと言えば、大丈夫、歩いて行きましょうとくる。お金は貸したくありませんと言えば、正面に立ちなおし、どうぞお願いですと悪びれもせず。私はなんだか可笑しくなってきて吹き出してしまった。少年も吹き出した。
「ねえ、お願いだよ本当に。日本円でも大丈夫だから」
風が吹き、菩提樹の葉がざわめいた。見上げる私達の頭上に、幸運がひとひら舞い上がり、そして少年の手のひらに舞い降りた。それはそれは、美しい時間だった。
少年はあたりまえの仕草で、その葉を私に差し出した。
「ありがとう、とても欲しかったの」と私は言った。
INDIA DAY6へ続く・・・・・・・
去年と同じ海に来た。
ここに来るまですっかり忘れていたけれど
何もかもが去年と同じふうだ。
空の色も風向きも、雲の配列さえ同じに見える。
カモメの数も上下する彼らの高度も
遠くを行く船も、
確かに去年見たような気がする。
夕焼けがやってきて
それもすっかり覚えのある。
そしたら遠くの山の連なりがいきなり網膜に映り込み
その驚きもまた、
覚えのある。
子供達は大きくなった。
巻き毛も幾分ゆるやかになり
空に延びた両手は
天を自由にかき混ぜるために
もう父の肩を必要としない。
去年と同じように写真を撮ってもらう。
「ちゃんと撮ってよね」
と私が言う。
ファインダーを覗きながら
「フン」と長女が鼻で笑う。
去年と同じ海に来た。
そして後の364日間はすっかり今日のことを忘れて、
ただ、1日1日をこれが最後かもしれないという
ギリギリの気持ちで
紡いで行きたいと思った。
2011年 これから秋へ・・・・・
夏らしい食材を前にして・・・ということではなかった。ただ、朝食の為に味噌汁のネギを刻んでいただけだったけれど、確かに「夏が来たのだ」と思った。かすかな夏の湿度と小さな窓から射し込む斜光が、立ち昇るネギ臭さと相まって、まな板の上に夏を連れて来たのだと。
全て刻み終わった時、ふと何処かの台所でも似た様な心持ちでまな板の前に立つ女が居るのではないか、いや、居るに違いないと確信した。そしてそれはきっと、日本の女でないと感じ得ない感覚なのだろう・・・そんなことを考えていた。
プラスチックのまな板には夏は来ない。そうも思った。以前暮らしていた家の床を張り替える時にでた木材の端切れを、まな板として使って来た。沢山の傷があり、そこかしこが黒ずんでいる。思えば実家の台所にも似たような顔をしたまな板があり、今は亡き祖母の台所にもあった。あのまな板は何処へいったのだろうか。
夏は過去を想う。先に逝った人たちを想う。
そういえば数年前の夏にも同じような心持ちになったことがあり、想いを書きつけたことを思い出す。どうしても引っ張り出して来なくてはいけない衝動に駆られ、まだ荷解きされていないノートの束から見つけ出す。読み返してみれば、その年の「夏」は今時分よりももう少し後に来たのだなとわかった。そしてまな板の上に在ったのはネギ、ではなく、コウロギだったことも。
その年の夏、思いがけない死が在った。
今年の夏とその年の夏の気持ちがかさなる。
まな板の上のコウロギには
何処かへ飛んでいっておくれ、と願いつつも
つまみださないでそっと眺めていたいような
そんな佇まいがあった
この地方にはめずらしく
蝉の鳴く声が
おもてで夏を演っている
気がつくと
まな板の上のコウロギは
もうそこには居なかった
今年は秋が遅いというに
コウロギだけが
いやに律儀にやってきた
まだ季節には時間があるに
まな板の上にまで現れて
髪の毛1本にふれるささやかさで
心の淵を跳ね台にした
いやに長い夏の余韻に
入道雲が今日も
合成写真のようで眩しすぎる
(2007・8)
机の上に、母方の祖母の片身としてもらってきた黒電話を置いた。ダイヤルの真ん中には印字された電話番号が今も薄く残っている。時々、受話器を置いたままダイヤルを回してみる。数字一つ回すたびにジーコジーコともとの場所に戻っていく感覚が懐かしい。受話器を上げたり置いたりする時に、チーン!とひとつ音がしたものだが、今はもう聞けない。
耳を澄ます。受話器は今のそれよりずっしりと重く、そして確かに繋がっている。この時代をどういけばいいのか、ちょっとだけ先回りしてそっと耳打ちしてくれているような、そんな気がしている。
どうか、この夏が皆様にとって喜びの多い季節となりますように・・・
心の一番深いところから
辻谷商店 A
1月9日 ガヤー駅~ブッダ・ガヤー
朝霧に衣服を濡らしながら、私達は狭い階段をガヤーの町へと駆け下りた。待合室を照らす蛍光灯が嫌に白々しく、私達は再び異邦人となった。昨日までのコルカタがとても遠く感じられ、コルカタの細い路地裏で出会った沢山の人懐っこい顔が恋しいほどだった。
コルカタ動物園前で買ったMの麦藁帽だけが、唯一の原色を放っている。列車に揺られ北西に一晩移動してきただけなのに、ここはとても寒く私達は季節外れで滑稽でさえあった。
ガヤーからブッダ・ガヤーまで、南に約16キロ。その道のりを私達はオートリクシャーに揺られて行った。相変わらず深い霧に包まれ、1メートル先もまともに見えないような道を運転手に託したまま、むき出しの車体から吹き付けてくる風に身を縮めながらMと抱き合うようにしてやり過ごした。霧とリクシャーの派手な飾りの隙間からは、壊れたレンガの瓦礫が見えるばかりで、時々霧の中から物乞いの老人や家畜のヤギが突然姿を現し、私達を驚かせた。その度に運転手がバックミラー越しに上目遣いでニヤリと頷いてみせるのだった。
体温が徐々に奪われていくのを実感しながらも、私はとても幸せだった。Mは何も喋らなかったけれど、日本を経つ頃より健康そうに見えた。コルカタで髪を短く切った彼女は、まるで少女なのを悟られないように身なりをサッパリと整え、何者かから逃亡している物語りの主人公の様にも見えた。
冷たい身体のその奥で、遠い記憶が後頭部をつたって瓦礫ヶ原に投影されていく。
まだ、6歳か7歳だった頃。とうとうその朝がやってきたのだという想いで、私は目覚めた。家中の者がまだ寝息を立てていることに安堵しながら、その頃取れたばかりの補助輪なしの自転車をそっと車庫から運び出した。砂利の庭を用心深く移動しながら、自転車の車輪がアスファルトの道に差し掛かった瞬間、一気にペダルを踏んだ。自転車はイメージ通りに滑り出し、家族の眠る小さな家から私の身体をどんどん遠くへ運んでくれた。我が家から150メートルほど延びたまっすぐな1本道が過去になった時、
「これで何もかも自由だ・・・」
そう思った。その時、「自由」という言葉を知っていたかどうかは分からないけれど、確実に初めて自由を身体で感じた瞬間だった。それから、みるみる太陽が昇り始め町が動き出そうとする時間をすり抜けるように国道を走った。いつもなら自動車や大型トラックが行き交う海岸沿いの大きな道を、堂々とその真ん中を走るのだ。夏には父親が海水浴に連れて来てくれる浜辺へとカーブを曲がる時、両足を大きく開いたまま、加速と遠心力に任せて滑る。全てが自分の思い描いていた通りで、まだ誰も足を踏み入れていない今日という日に自分が足跡をつけたのだという充実感・・・。太陽の高度が今日に差し掛かったのを合図に、大急ぎで家族の眠る家に戻り、車庫に自転車を納め、ベッドの上段ですやすや眠っている兄を確認してから寝床に入る。それが、自分の記憶にある最初の旅だった。
1時間くらい揺られただろうか?私達を乗せたリクシャーは初めて橋らしきものを渡り、沿道には小さな商店や露天が並び始め、行き交う人々の数も少しずつ増えてきた。運転手が
「ボード・ガヤー、ボード・ガヤー」
と言ってエンジンを止めた。「ブッダ・ガヤー?」と聞くと、そうだと頷く。ブッダ・ガヤーの町にもまだ霧が立ち込め、冷えた身体を温める為に早くどこかに宿をとりたかったので、どこか安い宿へやって下さいとお願いした。リクシャーは[LAXMI GUEST HOUSE]という小奇麗なゲストハウスの前に停まった。1泊Rp500は自分達には上等過ぎたが、暖かいシャワーがあるということでとにかく冷えた身体を温めようとここに宿をとった。
部屋に荷物を降ろすなり、私は靴のままベッドに仰向けになった。北側にある小さな窓から朝の白い陽射しが差し込むのを眺めながら、(この向こうはブッダ・ガヤーの町なのだ)ということが不思議だった。初めてガイドブックのブッダ・ガヤーのページを繰ってみる。紙面上に見る町並みや、世界遺産であるマハーボディー寺院などが窓の向こう側に在るという事実を、長い時間楽しんだ。風呂場では、Mが熱いお湯の出るシャワーで靴下を洗濯している。その姿をファインダー越しに眺めながら、
(もしもこの子が一緒でなかったら、自分には子供がいるということさえも忘れてしまうのではないだろうか・・・)
という思いが過ぎった。そして、3人の幼い子供達を置いて出てきたことを後悔する自分を期待した。けれど、寂しいとも心配だとも、早く会いたいとも思わなかった。その代わりに、
(あの子達は、自分達を置いていった母親をどう思っているのだろうか?)
と考えていた。末娘はもうすぐ3歳になるけれど、まだオッパイを必要としていた。生まれてから今まで、 彼女はそれなしで眠ったことが無かった。
北海道を出発する時、母ちゃんは弟や妹達に
「母ちゃんはインドにお買物に行ってくるから、いい子にして待っていてね」
って言っていました。だから弟や妹達は、「インド」というのはジャスコ、とかイトーヨーカドーとかそういう類のものだと思っているのだろうとあたしは思います。あたしはもう8歳だし、インドというのがよその国の名前だということはもちろん分かっていたけれど、その他には毎日カレーばかり食べている国、ということしか頭にありませんでした。だけどインドにはカレー以外の食べ物も沢山あるし、ここブッダ・ガヤーには、まるで日本人みたいな顔つきの人達が大勢いて、母ちゃんはきっとあの人達はチベットから来たんだろうね、と言っていました。
ここ[sakura green]レストランにはインド料理のほかにもチベット料理が沢山あって、ラーメンみたいのとかシュウマイみたいのとか色々で、豆腐の入ったカレーなんかもあって、あたし達はとにかく何でも良く食べました。
そう、このレストランは地元のASHOKさんという人に教えてもらって来たのですが、今日はこれからそのASHOKさんのバイクに乗ってあちこち見て回ることになっているのです。 コルカタでは、「案内してあげる」と言ってついて来るインド人全てをお断りしていたので、あたしは母ちゃんがASHOKさんの申し出をあっさり受けたことが、本当に不思議でした。最初母ちゃんはASHOKさんにも「自分達でゆっくり歩きます」って言っていました。だけど、ASHOKさんはずっと私達の少し前を歩きながら色んな話をしました。sakura greenの入り口まで来た時、母ちゃんはニッコリ笑ってASHOKさんに手を振りました。それであたし達はここで食事を済ませた後、ASHOUさんとすぐ近くのバスターミナルで落ち合うことになっていたのです。
あたしと母ちゃんを乗せたASHOKさんのバイクは、あたし達が今朝早く渡ってきた橋を逆戻りし、草だらけの小さな道をどんどん行きました。ナイランジャラー川には水が1滴も無く、そこでは小さな子供達が遊んでいるのが見えました。バイクがデコボコ道を大きくバウンドするたびに、あたしはASHOKさんの上着の裾をギュット掴み、母ちゃんは大声で「ヒャッホー♪」と叫んび、ASHOKさんが笑いました。
スジャーターから乳粥を貰うブッダの像の前でポーズをとるチベットのお坊さん
あたし達のバイクは、細い細いデコボコ道を陽気なヘビのように這いながら、ブッダが覚りを開く前に苦しい修行をしたといわれる前正覚山や、修行でやせ細ったブッダがスジャーターさんという女の人から乳のお粥を貰ったとされる場所、ASHOKさんが「トトロの木」と呼ぶ大きなガジュマルの木、そしてのん気な田園風景の続くセーナー村などを、風なって走り抜けました。バイクが時々大きなくぼみや深い雑草に車輪をとられると、あたし達は簡単にそこいら辺に投げ飛ばされるのですが、そのたびにお腹を抱えて大笑いし、ASHOKさんも笑いで涙を流しながらバイクを起こしにかかるのでした。
ASHOKさんちの帰り道、Mはちょっと不安そうにこう尋ねた。
「ねえかあちゃん、きっとあの人もお金くれって言うかなあ?」
コルカタでの数日間で、幾度となくそういう場面に遭遇し、夜のマーケットでしつこいスパイス屋から全速力で逃げ帰ったこともあった為か、Mはそういうことに敏感になっていた。リクシャーを降りた途端に約束していた料金が「フィフティーン」から「フィフティー」に変わり、その度にもう一度やりとりが必要になることにも慣れてきた頃だったと思う。
最初からガイドに対する報酬は当たり前だと思っていたけれど、コルカタではとにかく自分達だけで歩いてみたい気持ちが強く、ガイドを必要としなかった。それはお金云々のことではなく、とにかくMとの歩幅さえも掴みきれず、Mとういう1人の人間に対する後ろめたさから来るエゴイスティックな配慮からだったと思う。望みもせず、何の選択肢も無いままインドに連れてこられたMにとって、インドで出会う人、出来事、観るもの全てが彼女の中に土足で入って来た。だからせめて、半径1メートル以内には誰も入れてはならないのだという、せめてもの母親らしい配慮なのだと。
その日の夜、世界遺産であるマハーボディー寺院を訪ねた。寺院はおろか、観光名所に殆ど感心の薄い自分であったが、その足元に立ち寺院のテッペンを見上げた時は本当に幸せな気持ちになった。もう夜の8時過ぎだというのに、寺院周辺には大勢の参拝客がおもいおもいに歩いたりひざまずいたりして、ライトアップされた寺院がブッダ・ガヤーの夜空に君臨していた。
「世界には、見たことも無い素晴らしいものが沢山沢山あるんだろうな。」
どこかで聞いたような言葉が素直に胸を過ぎり、インド全図が頭上に浮かんだ。自分達はまだその上のほんの数センチしか旅をしていないのだと思うと、もうどこまでもどこまでも行ってしまいたい衝動に駆られた。
明日の朝早くもう一度ここを訪れる約束をして、Mと手を繋いで暗い夜道を宿まで歩いた。私達の宿は寺院からは離れた場所に位置していた為、少しずつひと気が薄くなり、オンボロな電柱の明かりだけを頼りに歩いた。民家からは団欒の温かさがオレンジ色をしてドアの隙間から漏れていた。カメラにおさめるには光の足りないそういう風景を、祈るような気持ちで記憶に閉じ込めようとしていた。
宿に戻った私達は、5日ぶりに温かいシャワーを浴び小さなバスタブに湯を張って無理やり体を沈めた。日本からくっつけてきた何やら小さな取るに足りないような事柄がバスタブに溶け出して、トラベル用のボディーシャンプーのデザインが何だか下品に見えた。突然Mが、
「あ、母ちゃん・・・」
と言った。視線の先をみると、湯船に浸かった自分の乳房から、母乳があふれだし湯が白濁しているのに気がついた。もう5日間あげることの無かった母乳は、このまま止まってしまうだろう、、そうして、約10年間続けてきた授乳をやめることになるだろう、、と思っていた。自分の思いとは裏腹に激しく分泌を続ける乳房を見つめながら、急にポロポロと涙がこぼれた。身体をさらに小さくし、頭のてっぺんまで湯船に沈みながら、本当に長いこと私は泣いた。悲しかったからではない。自分の中に「母性」の在ることが心底嬉しかった。そしてこの旅で初めて、(子供達に会いたい・・・)と想った。
夜のマハーボディー寺院でキャンドル売りの商売をするお姉さんと兄弟たち
INDIA DAY5へつづく・・・
ヨーコ、元気ですか?元気ですか、というのもナンだか間抜けな気もしますが、アナタはきっと元気なんだろうなと、そう思います。今日は珍しく熱っぽく、早めにベッドに潜り込みましたが、その瞬間にアナタからのMailが入りました。送信ボタンを押す時、アナタが私の受信音のアノたて笛の音をイメージしながら押したであろうことまで私には見えました。ねえ、きっとそうでしょう?
お父様の事は、神戸のホテルで窓の外を眺めている時、MちゃんからのMailで知りました。その朝、神戸の空はよく晴れていて、真っ白な雲がいくつも浮かんでいました。眼下には沢山の車や人が行き交っていたけれど、ホテルの窓が分厚かった為か、それとも私の心持のせいなのか、全くの無音の中でそのお知らせを受け取りました。一つ添えておきたいのは、Mちゃんのお知らせは詩のように静かでヨーコへの愛情で溢れていたということ。そして、そのお知らせを同時に受け取ったアナタの友達みんなが、アナタのことを想っていたということ。
今日の午後には、もう災害支援。アナタが細い腕で大きな石をいくつもいくつも軽トラに積み込んでいく姿を想像しました。その時、何故だかアナタは悲しみよりも喜びをもってその作業に没頭している姿が見えました。生き生きとさえしているのだろうと。その日の朝、きっとお父様は小さな壷の中に入ってしまったのだけれど、それと引き換えにアナタはいつでも、心の中にお父様を住まわせる事ができるようになったのだと。
アナタのお母様が畑に植えたお芋は少し大きくなったでしょうか?それはまだ、アナタの実家に電気も水道も復旧していない頃。私の携帯には今よりももっと沢山の情報が行き交っていて、私達はそのイチイチに上がったり下がったりしていた。アナタは家族を心配し、私は家族を心配しているアナタを心配した。そして、一刻も早く知らせなくてはいけない情報が山程あることに翻弄されていった。
「震災も、放射能も、お父さんのことも全部受け入れる。」
お母さんがそういって笑うんだよね、とアナタから聞かされた時、私は人間にはどんなものにも邪魔することの出来ない何かキッパリとした不動の力、みたいなものがあるんだと確信した。それは多分アナタも同じだったみたいで、私達は泣いたり笑ったりしながら結局は町の食堂でラーメンをズルズルと平らげてしまったよね。その後、アナタの車で家に帰るとき、ニュースで茨城が揺れた事を知ったのだけれど、もうその横顔は凛と前を向いていたから私も前を向いていた。
ヨーコ、元気ですか?これを書いていたらもう夜中の1時半になってしまった。もし今起きていたならば、少し泣いているかもしれないなとも思う。沢山のことが一度にやって来たから。さっきもう一度アナタからのMailを読もうと携帯を見たら、もう1通来ていた。どこまでもどこまでも前だけ向いているんだね。それはきっと、お会いしたことはないけれどアナタのお母さんと同じ姿なのだろうと、そう思います。
それでは、ここで待っています。明日も石を運ぶのでしょうね。そんなに細っこいのに。そう、また何か思いついたらMailします。私の面白い顔も写メしときます。みんなスタンバッテます。ボスが居ないと始まりませんから、やることやったら帰って来てください!それでは・・・
あや
追伸:多分アナタも感じていると思いますが、この町の人達も幾分すり減って来ています。実際には何も失わず、身体も傷ついていないから、あの日以降も同じ日常を保ち続けていかなくてはならない事。それは、目に見えないけれどとても大変なことなのです。私達はどちらかと言えばバカだけど、根拠のない確信と自信をもってジリジリと前へ進んで行きましょう。
追伸2:あ、何?インドの話どうなったって?書く、書くよ。それが何の為になるかは分からないけど(きっとならないけど)今日久しぶりに開いたら、毎日沢山の人が見にきてくれてたから。アレはね、ヨーコに貰ったノートにビッシリと書き付けてあるんだ。そして今2冊目に入っている。ありがとう!
2011年、新しい年が始まりました!「新年、あけましておめでとうございます!!」
昨年末はギリギリまで店で作業などしておりました為、感謝の気持ちをお伝えしないまま年を越してしまいました失礼を、どうぞお許しください。昨年は本当に沢山の方にご来店いただきありがとうございました。
本年も、心からよろしくお願いいたします!
今年の辻谷商店・食堂は8日(土)よりスタート致します。
商店は10時から食堂は12時からになります。
尚、1月中は店主Aが出張に出るため、食堂の営業は土・日・祝祭日のみとさせて頂きます。商店は水曜日が定休以外はオープンしています。どうぞ宜しくお願い致します。
さて、辻谷商店では新春2日~3日にかけて新年会を予定しています。お正月、2日ともなれば意外と皆さんご馳走にもダラダラにも飽き始めて、友達はどうしているのかな?などと思うのですがお互いに家族水入らずを想像して遊びにはいけないもの。もし宜しければ、各々の都合の良い時間に辻谷商店に来て、のんびりと遊びませんか?私達のことを知らない方、一人で参加の方、友達と、子供づれで・・・どんな方でも結構です。特にコンセプトはありませんが、のんびり楽しく過ごす事ができたら、と思います。
[参加概要]
参加資格:お正月をのんびり辻谷商店で過ごしたいと思っている人
参加費:大人1000円 子供無料
持って来るもの:一人何でもいいのでお料理1品(でっかい卵焼きとかそういうのでもOK)どしても無理な方はいいですよ。また、自分の飲みたいお酒など。ジュース類はこちらでいくらか用意いたします。生ビール希望の方はKatzの美味しい生ビール(ほんと美味い!)を特別お年玉価格で販売します。
時間:1月2日お昼過ぎ~3日のなんとなく夕方くらいまで(多分途中で行きたい人はそりすべりなど)
その他:夢野カブちゃんお年玉ライブ♪東京から北海道ツアーを終えて辻谷家に年越しに来てくれているカブちゃんの投げ銭ライブあり!!時間は未定ですが、多分2日夜かなあ・・・
楽器を演奏したい方は、是非是非ご持参ください!!ライブ自由です。
以上のように非常に適当な企画ですが、誰も大変でなく皆がたのしいお正月になったら嬉しいな、と思います。尚、参加費の中から鍋か何かの準備をこちらでしたいと思いますので、事前に参加の分かるかたはお電話くださると嬉しいです。(突然参加もOKです)
電話:015-482-4020もしくは 015-482-2606 ツジヤまで
お泊りも出来ます。布団も若干ありますが、シュラフなど持参くだされば嬉しい!
昨年の忘年会の時も、初めて一人で参加してくれた女の子がいました。一人でも、そんなにお喋り上手でなくても楽しく座っていられる場所がありますので、来て見たいな、と思った方はホント来てくださいね。子供もワラワラいるので、子連れ大歓迎です!!
では、お待ちしています!尚、時間など適当なのでご心配な方は事前にお電話ください。
Sちゃんへ
Sちゃん、元気にしていることと想います。電話もMailもほとんどしないけれど、自分にはSちゃんの事が良く見えるしSちゃんにも私が良く見えていますね。その辺の感じはコトバには出来ないけれど、まあ私達がみのり保育園のブランコで、毎日毎日絶妙なバランスで二人乗りをやっていたことから来る確信、だと思います。そこんとこ、どんなもんでしょう?
こちら、今年は雪がほとんど降らず。先日、やっともう後戻りしないくらいには降り積もったのですが、昨日の雨でほとんど消えてしまいました。雪が降れば町全体が明るくなるので、救われた気持ちになります。こちらに移り住んでもう10年以上になりますが、今だもってこの年の瀬の短い日照時間と鉛色の空には気持ちが幾分擦り減ります。子供達が好んで見に行きたがる、よそのお宅のクリスマスイルミネーション、あれ見るたびに何故か故郷を想います。彼らにとってのイルミネーションは、私にとっては夏の夜の蛍の群れ。電飾の灯りに感嘆の声をあげる彼らの中で、自分だけが北海道生まれでないことを実感します。その光がカラフルで美しければうつくしいほど、どこか寂しい気持ちになるのはどうしてでしょうね?
今年もそちらには帰りません。何度か母から打診がありましたが、帰らないことに決めました。「お父さんが喜ぶよ」という一言に、一瞬心が痛みましたが・・・。いつも帰りたいと想っているのに、帰ることができる状況にあればあるほど、帰らないことを選ぶのはどうしたものでしょう?いつでも、安心して戻る事のできる場所があるというのは本当にシアワセなことですね。小さい頃とほとんど変わらない家や、そこで使っているいつまでも割れる事のない安価な食器、代わり映えのしない本棚の本、そしてかつての自分の部屋・・・そういうものの中にあって、少し年を取った両親を見るのが嫌なのかもしれません。母にはよく会っているけれど、父とはいつも電話でのやり取りだけだから。
そんな訳で、今年のお正月もこちらで迎えます。31日からお客さんがみえるし、今年は新年2日から辻谷商店で「新年会」の予定。いつでも誰でもご参加ください!というもので、持ち寄った料理を大皿にどんどん乗せていく高知の皿鉢形式でいくつもりです。そこにSちゃんもいたらどんなにか楽しいだろうに、とこういう時はいつも思うのです。
店の向かいでは、日々、道の駅の工事が進んでいます。見慣れた風景がどんどん変わっていきます。あんなに毎日見ていた風景も、壊されて何日か経てばもうどんなだったか記憶が曖昧。人の 意識や記憶は、ほんとうに心細いものだと思います。そういえば、町なかにあった古いバスセンターもいつの間にか更地になっていました。そういうモノを目にするたびに、故郷に帰るのがためらわれるというものです。風景が変わるというのは、そこを離れた者にとっては取り返しのつかないモノを失ったような感覚があります。けれど、自分の記憶の中にある建物や出来事、人びと・・・そんなものを当たり前に共有できる思い出、というものを持った幼馴染みというのは、本当にかけがえのないものです。Sちゃん、ありがとう。
そちらはどんなですか?仁淀川河口では、シラスウナギ漁の青いテントが、この冬も破れた裾をヒラヒラさせているのでしょうか?実家や家族や幼馴染とおなじくらい、あの場所は大切な場所。何年かに1度そちらに帰るたび、私達にとっては、いつも子供の頃そうしたのと同じように、凧揚げをしたり近況を報告しあっったり思い出を引っ張り出してきたりする場所だよね。この次はいつになるでしょう?
薪ストーブにも出番がきました。先日、フランスで使われていた古くて大きなソファが届いたので、さっそく模様替えをしました。ストーブにちょっかいを出せる場所にソファ席を 沢山と、もう一つカウンター前にひとつ。ここでストーブの火を眺めながらお喋りできたらどんなにか素敵だろうにと思います。
今日は皆既月食が見られる日でしたが、Sちゃんは見ましたか?私達は店をちょっと抜け出して、町外れの草原の丘の上に立って、月が地球の影に隠れていくのを眺めました。最近は本当にしょっちゅう月を眺めます。どこにいても月はひとつだから、遠く離れた大切な人と、もしかしたら同じ瞬間に月を見上げているかもしれないな、などと思いながら観ているんです。月を観ているというより、月を観ている人を見ているような気持ち、に近いよね。
今年中にやってしまわなければいけないこともお互いにいくらか抱えてはいると思うけれど、どうか最後の最後まで、きっちりと気持ちに添う毎日を過ごせていけたらな、と思います。大げさに1年を振り返ったり新しい年にはしゃいだりするこの時期が、すみやかにシアワセに過ぎ去り、早く日常に戻って欲しいと思っている、などと言えばあまりにも軽薄すぎるでしょうか?でも、何てことはない日常の中にある美しいものや優しい気持ちを探すほうが、よっぽど刺激的で好きなのです。
どうか、元気でいてください。また書くね。
私のことだから、多分年賀状は出さないような気がします。
あや
おまけ:先日、釧路から時々お店に来てくれる3人娘と、撮影会?をしました。辻谷商店には、この冬も沢山の衣料や雑貨、CD、アンティークなどが届いています。何故か広報活動というものが苦手なのですが、こうやってみんなでワイワイ言いながら服を選んで写真に収める、というのは本当に楽しかったです。店の様子を見たいと言ってくれていたので、少しでも雰囲気が伝わればいいな。
ヨーロッパUSED帽子、フィッシャーマンズセーター、USEDニッカポッカ、アザラシのブーツ、インド自転車
PENDLTONジャケット、70’Sプリントシャツ、USオーバーオール、USED UGGブーツ、モロッコカゴ
モデル:TACHIBANAさん 服:AYA 写真;KOBAYUKAちゃん
スイスUSEDスカーフ、ネパール草木染手編みベスト、ハンドプリントワンピース(オールドマンズテーラー)、USEDファーシューズ
モデル:KONちゃん 服:AYA 写真:KOBAYUKAちゃん
USEDベレー帽、PENDLTONジャケット、アンティークナイトドレス、USEDアディダススニーカー、インド革バッグ
モデル:TACHIBANAさん 服:本人 写真:KOBAYUKAちゃん
UDEDニットストール、アンティークリネンナイトワンピース、USEDロマンティックスカート、USED革ブーツ
リネンストール(チャハット)、ノルディックUSEDカーディガン、フレンチボーダーシャツ、ドイツUSEDアーミーパンツ、USEDマウンテンブーツ
USEDアディダスジャージ、ラスタキャップ
モデル:KONちゃん、KATZ 服:AYA 写真:KOBAYUKAちゃん
KONちゃん)USEDチベタンベスト、USEDハンドウォーマー、アザラシブーツ
KATZ)USEDベレー帽、スイススカーフ、PENDLTONジャケット、ドイツアーミーパンツ、マウンテンブーツ
撮影の後はKATZ特製のミートソーススパゲッティとエスプレッソでしばし談笑。KOBAYUKAちゃんは、釧路市末広町で、「ルイーダの酒場」というバーの女店主。TACHIBANAさんは、その2階で「橘珈琲店」をやっています。そしてKONちゃんは仲良し3人組です。次回は、お天気のいい日に野外でできたらいいな、できれば男の子も交えて、と思っています。どうもありがとうね♪
いつもは寝坊しがちで、朝から全てに於いて出遅れた日常を送っている冴えない私達母娘ではありますが、根室2日目の朝は誰に言われずとも早朝5時半には起床。お布団もきちんと整え、髪をとかし首にスカーフを巻きつけ、窓の外に根室の今日が始まるのを見ていました。はたから見れば、窓の外の景色を見ているだけなのですが、その先に見ているのは今日会えるかもしれないルンタ達の姿でした。Mもそれは同じらしく、写真集を眺めたり、地図を眺めたり、まだ良く使い方のわからないカメラをいじってみたり落ち着かない様子でした。
7時からの朝ごはんを頂きに階下食堂に降りていくと、もうおみおつけのいい匂いがして、台所の奥の方から「おはようございます、よう眠れましたか?」とやんわりとした声がかかりました。この民宿は昨日私達を出迎えてくれたあのおじさんが一人で経営されているものだと思い込んでいた自分が、急に可笑しくなりました。
食堂には私達の他に4人ほどの現場労働者風の男性客がテーブルについていて、常連さんらしく朝のワイドショーを見ながら朝ごはんをかき込んでいました。私達のテーブルにも既に沢山の手作りのおかずが並んでいて、ご飯は卓上に置かれた保温ジャーから好きなだけ自分でよそうシステムとなっているようでした。そうこうしていると、さっきの声のお母さんが小さなお盆にあったかいお味噌汁をのせて運んできてくれました。すぐに、(きっと昨日のおじさんのお母さまなんだろうなあ)と察しました。やんわりした話し方がそっくりです。「おねえちゃん(M)のには、ネギ入れなかったからねえ」お母さんは言いました。本当はネギ入りでも平気なMですが、子供ながらにおばあちゃんの気づかいを察したのか、チラっと私の方をうかがったけれど黙って「ありがとう」と言いました。
「民宿たかの」の朝ごはんは素晴らしかったです。
何一つ特別なものは無いけれど、用意されたひとつひとつに、朝からいきなり「無言の教訓」というものをお盆にのせて差し出されたような気がしました。私達が食堂に降りてくる時間にあわせてほど良く焼かれた塩鮭も、もやしとホウレンソウのおひたしも、ごはんの柔らかさも、添えられた幼い子の好きな小さなヨーグルトのパックも、ポットの中のほうじ茶も・・・すべてが素晴らしかった。朝ごはんを頂きながら私は(自分に足りないのは、きっとこういうことなんだろうな)と感じていました。この何てことはない一つひとつのことは、だけれど、誰かのことを想いながら繰り返す、毎日のささいな動作からしか生まれないものなんだろうな・・・。台所に立っているたかのお母さんは、ちっとも慌てている様子などないのに、気がつけばテキパイキと実にいろいろな事をこなしていきます。
「卵、焼いてくるかい?」生卵を食べられないので手をつけていないのを見て、台所へ取って返し、程なくして小さなお皿に半熟に焼いた目玉焼きを持って来てくれました。目玉焼きの横には、小さくちぎったレタスとミニトマトが新たに添えられていました。そんな一つひとつにいたく感動しながら、小声でMに、「ねえ、ねえ、この目玉焼きってさあ、なんか和風よね。母ちゃんのは何ていうかこう、白身の淵っこがカリカリしててさ、裏んとこがプラスチックみたいじゃん?そう思わん?」と話しかけると、上目遣いでこっちをチラと見て、あきれたようにため息をついていました。8歳にもなれば、なんとなく母娘の関係も数年前のようにべったりとはいかなくなってくるようで、この頃ではどっちが大人なのか子供なのか分からなくなってくる瞬間も多い。思いついたと同時にすぐコトバにして吐き出す母親とは対照的に、Mのほうは近頃あまり感情を表に出さなくなってきたし、どこか達観したような顔つきでこちらを観察している風でもあります。とにかく、(せっかくこしらえてくれたものを)、という思いが強く、Mの分まで出来る限りお腹に入れたシアワセな朝ごはんでした。デザートの小さなヨーグルトのパックに、置いてきた小さな3人のことが過ぎりました。
荷物をまとめて宿を出る頃には、他の泊り客の方達はすっかり出払った後だったようで、私達の靴だけが残されていました。おひさまの日差しがいっぱい入る玄関先に、おじさんとお母さんが並んで私達を見送ってくれました。その姿を見たとき、本当は何年か前までここに お父さんの姿があったのかもしれないな、と想いました。記念にお2人の写真をお願いしたかったけれど、あんまり穏やかでやんわり立って笑って見送っていてくれるので、カメラを取り出す間抜けな時間というものでそれを壊したくないなと思いやめました。またここに来るから、そう思いました。
本日は昨日おじさんに教えてもらった地図を持って、半島を北回りに走ってみることにしました。朝の根室港は絵に描いたようにカモメが上へ下へ風に乗ってきて、そこら辺に山積みにされて放置されている網やら浮きやら、魚介類を入れる木箱やらが、すべて完璧な配置で放置されているのに感動していました。Mは「またそんなこと言っちゃって」と冷めた口調でしたが、地図を手に明らかに高揚した面持ちでした。
たかののおじさんの話では、北方原生花園をちょっと過ぎたあたりによく馬達を見かけるということ。昨日の風雨が他人事のように良く晴れた本日の根室は、11月の低い斜光に短く伸びた草原が金色に輝いていました。車で通り過ぎれば1メートル後ろはもう思い出になってしまうような懐かしい日差しの中、カーオーディオからはAsaの「Eye adaba」が流れていました。歌詞の意味も良くわからないクセに、私達がこの旅のテーマソングに選んだ歌でした。
(どうして今まで根室半島に来た事がなかったのだろう?)そう思いながら走っていました。何が違うのだろうか、と言えばここには決定的に大きな山や丘というものが無く、半島の上をいつでも風が通り抜けているのです。昨日初めて目にした巨大な風車があちこちに点在していて、空を割って立っています。「ここは風の谷のナウシカだなおい」と言えば、Mは目だけでこちらを見てはフンと鼻を鳴らすだけなのです。それが「そうだね」に聞こえるのは、私達がやっぱり母娘だからでしょう。
これをどうやって設置したかでケンカ越しの議論になるほど巨大な風車 羽がブッ飛んでくる恐怖におびえ、つい加速して通り過ぎてしまう
「あ、馬だよ!」突然Mが、遠くに馬達の姿を見つけました。
遥か遠くに馬達の姿が見える。「おーい!おーい!」とMは叫び続けるけれど聞こえるはずもなく、聞こえたからといって走り寄ってくるはずもない。
「なんでニンジンもって来なかったんだろうね」そういったMはやっぱりまだまだ子供だと思いました。それから、馬を呼び寄せるときの言い方ってなんだっけ?などと議論していたら嘘のようなタイミングでツイッター上にその情報が入る。しばらく「ボーボーボー」と呼んでいるとMが「恥ずかしいからやめて」というので諦める。「それに母ちゃん、あれはルンタ達じゃないから!」
そんな訳で私達はそのまま車を走らせ、再び納沙布岬に立ちました。昨日はほとんど演歌、な感じの納沙布岬でしたが、今日は違っていました。夏に網走の海に行った時にも感じたことですが、ここ納沙布岬にも何やらアリバイというか出来事の置いていった気配、というものを感じます。小さい頃からあっけらかんとした太平洋を見ながら育った私には、同じ海でも随分と違いを感じます。太平洋には目の前にはただただ海原しかなく、その水平線のずっとずっと向こうに何かがある、という気がするのです。しかし、納沙布岬のその先には明らかに沢山の気配が漂っているし、岩肌に停泊している野鳥の群れもカモメたちも、それが何なのか、よく知っているような気さえするのでした。
納沙布岬灯台を背に、北海道弁でいうところの「おだっている」M
お散歩途中のおじいさんが「撮ってやっから」と写してくれた、この旅唯一の2人の写真。「灯台もバッチシよう!」と言っていたけど、後で見たら映ってなかったけどまあ、いいです。
そのおじいさんは前方に「大漁」と紅い刺繍の入ったキャップを被っていて、本当にそれが欲しかったんですけど、結局いい出せなくて今かなり後悔しています。
それから私達は半島付近で飛んだりはねたり、歌ったりケンカしたりしながら過ごしました。地図の上のこの突先に居ることを何度も確認しながら、それだけのことがとても嬉しいのでした。
「Lungta」の中にある海の写真を想いました。自分がそこに立った時、(ああ、あの日差しはこういうことだったのか)と想いました。そして、(この気持ちはいつまでも忘れないようにしよう)と決めました。理由を尋ねられればきっと応えられないけれど、この気持ちがここに在る限り、これからの事全てが大丈夫なんだ 、きっとそうだ、と思いました。私の中では今ここに在る「Lungta」から、初版「Lungta」の海へと心が流れていくのが分かりました。それすらも、何故だか理由ははっきりしないのだけれど、自分が想っている以上に深く深く、心の中に焼きついているんだな、と知りました。もうそれだけでここに来て良かったと思いました。それから、声に出して「ありがとう」を言いました。Mは黙っていました。
それから私達は、何度も何度も根室半島を周りルンタ達を探し続けました。上空から見れば、私達の大きな戦車みたいなオンボロ車が、半島をクルクルやっているのです。何度走っても新しい発見があり、飽きる事がなかったけれど、とうとうルンタ達らしい馬達を見つけることはできませんでした。氏が撮影したルンタ達は半島南側を走っていれば会えるかもしれない、と旅の途中で教えて頂いたけれど見つけることはできませんでした。でも、私はすでにほとんど満たされた気持ちでした。
ユルリ島に向けて走り始めたときは、本当に冒険みたいでした。いつもはあまり自分の感情を表に出さないMもひっきりなしに喋っていました。そうしていないと、どうにかなりそうだったのです。もう正午近かったので、1時からの落石ネイチャークルーズの船に乗る事は無理なんだということは暗黙の了解となっていて、Mもそれ以上口にしませんでした。おじさんに教えて貰った、「ユルリ島に一番近い突先」が私達の目的地。もうすでにちょっと土地勘のついた根室市内を抜け、花咲駅近くを通り過ぎ、昆布盛へ。目の前に現れた2つの島は、予想以上に近くに浮かんでいました。
北海道の天然記念物に指定されているモユルリ島(左)とユルリ島
両島とも、珍鳥エトピリカやアザラシ、ラッコの繁殖地になってる
昆布盛はその名の通り、昆布漁の盛んだったところ。ユルリ島にもその昔、昆布漁で生計を立てる人たちが暮らしていたそうで、時代と共に軍用馬としての役割を終えたルンタ達は、昆布の運搬などに使われていたと聞きます。現在は無人島となっていて、ルンタ達の末裔が約25頭、ほぼ完全に野生化して生息しています。そしてその25頭はすべて雌馬なのだ、ということを、私達は昨日知らされたばかりでした。
もっと近くにユルリ島を望める場所を探して走りました。昆布盛小学校の裏手あたりをもう一度海岸線に出た所に、私達は車を停めました。さっきの場所よりも島が近くに見えましたが、またしても現れた巨大な風車の大きさと、目の前の鉄柵の前に、ユルリ島が余計に遠く感じられました。まるでガラスケースにでも収められているみたいに、すぐ手の届きそうなところに在るのに、決して触れることが出来ないのと同じでした。
私達の眼前には高い鉄柵が張り巡らされていました。「あそこには決して行く事ができないのですよ」と。
ユルリ島に向って立つM。自分で自分を見ているような瞬間。Mは風車が怖いと何度も言いながら、ユルリ島をじっと見つめていました。
「馬達は、いつも灯台の下にあつまって居るよ」
おじさんの言葉を思い出し、ユルリ島に見えるただ一つの突起物である灯台付近に目をこらしました。ユルリ島は、こちらから見える限りまっすぐな地面だけが広がる、荒涼とした印象の島です。その中に在って、灯台は唯一の「希望」のようでした。その下に、沢山の黒い影が点在し、着いたり離れたりしているのが肉眼で見えました。(やっぱりそこに居たんだね)と心の中で言いました。
「ルンタだ!ルンタ達が居るよ!!」
そう叫んでMが振り返りました。「そうだね、彼女達だね」と私が言って、私達はいつまでもその黒い点を眺めていました。島の手前を、小さな漁船が白い線を引いて渡っていくのが見えました。自分達はあれに乗る事もできなければ、決して島に上がる事もできないということが身に沁みました。せめて自分が彼女達の存在を知り、そしてこんなに会いたいと願っている、という気持ちだけでも伝えられないのか、という想いでイッパイでした。
ユルリ島に立つ灯台。その右手に、肉眼ではかすかに彼女達の姿が確認できます。
ユルリ島を後にする時には、Mも私もあまりお喋りしませんでした。1日目に南側の海岸沿いで遠くに見た、立ち入り禁止柵の向こうの馬達はルンタ達だったのかもしれないと突然Mが言い出し、またもと来た道を市内を抜け半島に入って行きました。柵の向こうには、もう馬達の姿はありませんでした。Mは少しがっかりしたけれど1日目の夕方みたいに不機嫌になったりはせず、「母ちゃん、行こう」と車に乗りました。なんとも言えない充実感と寂しさがごちゃまぜになった気持ちをお腹の奥のほうに抱えながら、私達は弟子屈への道を走りました。半島といよいよお別れという場所に来た時、
「また来ようね、根室」
とMが言いました。私はそんな遠くないまた、ここに来ると約束しました。Mは「Lungta」を膝下に抱き込んだまま、弟子屈までの道のりを夢の中で過ごしました。シアワセそうな顔をしていました。
そして再び学校がはじまり、湿ったビスケットのような日々に戻ったMです。
追伸:この旅のことは、ここに書くつもりは全くありませんでした。とても個人的な出来事だったのと、自分達にとって、とても特別な時間だったからです。でも、最近になってMが「母ちゃん、ルンタの旅のこと書いた?」と何度も聞くようになりました。それで私は、自分が思う以上に彼女がこの旅に何かを感じ、大切に想っていることを知りました。それから、母親が書くとりとめのない事を、こっそり開いて読んでいる事も知りました。だから、彼女の為の記録として残しておこうと思って書きました。
それからこの旅で、ユルリ島に生息するルンタ達が雌馬だけになっているという現実が、予想以上に自分に影響を与えているということも認めなくてはなりませんでした。この旅以来、彼女達の現実につじつまあわせができず、Lungta達の存在に自分を重ねあわせて寄り掛かっていたことも分かりました。もうすぐ厳しい冬を迎える島の彼女達のことを想えば哀しい気持ちになりますが、かといっていつまでもここに、気持ごと留まって居る訳にはいきません。そして、彼女達は何としてでも冬を乗り切り生きていこうとするのだろう、そう思います。春になったら、再びユルリ島を訪ねるつもりです。できれば今度は船に乗って。その時、彼女達が生きているなら(生きていると思いますが)それは、本当に「希望を肉眼で観る」という瞬間になるでしょう。
写真集「Lungta」との出会いは、私にとってとても大きいものでした。それは何かともし聞いてもらえるなら「扉です!」とすぐに応えることができるのです。
この扉に気がつかなければ、それはそれで充分シアワセで満ちたりた毎日を送っていたと思います。ですから、その扉の向こうに見える微かな光の方へ行きたいと思うことは、喜びと同時に新たな苦痛をも伴った旅になるということは予想がつきました。けれど、気がついてしまったからにはその先へ行きたいと、そう想いました。
この事をきっかけに、Lungta達のことに留まらず、色々なことが見えない糸で繋がっていくのを感じずには居られません。それは人間が、ただ食物を摂取し、肉体が健康に維持されており、日々を何となく不自由なく暮らしていく、というだけでは満たされない生き物だということを今更ながらつきつけてくれたように思います。
最後に、「扉」をみせてくれた山田岳男氏の作品と、氏がこの世に生まれて今この時も続けている探求の旅(芸術活動という名の)に、深くふかく感謝致します。私にとって、この年の一番大きな出来事でした。
ありがとうございます!嬉しかったよ!!!
あや
[Lungta Paradise lost #1]は、辻谷商店でも数冊お取り扱いさせて頂いてます。心臓がドキドキしている方は、是非是非、お店にお立ち寄り下さい。
長!ここまで読んで下さった方スゴイ!ちょっと申し訳ない!!